長宗我部信親
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永禄8年(1565年) | |||
死没 | 天正14年12月12日(1587年1月20日) | |||
別名 | 千雄丸(幼名)。弥三郎(通称) | |||
戒名 | 天甫寺常舜禅定門 | |||
主君 | 豊臣秀吉 | |||
氏族 | 長宗我部氏 | |||
父母 | 父:長宗我部元親、母:石谷光政の娘 | |||
兄弟 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、 右近大夫、康豊 |
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子 | 娘(長宗我部盛親正室) |
長宗我部 信親(ちょうそかべ のぶちか)は、安土桃山時代の武将で、長宗我部氏の世子。
父は長宗我部元親。母は足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の義理の妹に当たる)。
[編集] 生涯
永禄8年(1565年)、長宗我部元親の嫡男として生まれる。幼少時から聡明であったため父から寵愛され、天正8年(1580年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、長宗我部信親を名乗ることになる。このとき、信長から左文字の銘刀を与えられた。
その後は父に従って各地を転戦した。しかし信長没後の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に敗北し、四国の覇者から没落して土佐一国を持つにすぎない豊臣氏の臣下となる。
天正14年(1586年)の九州出陣では、長宗我部家は忠誠心を問われ先陣の中に組み入れられた。総勢3000名(総兵力の約半数)を率いて、豊臣氏の軍監・仙石秀久のもとで宿敵だった十河氏も含む軍団に組み込まれた。仙石秀久の無謀な進撃案には父・元親と共に反対するが、結局、豊臣家へ降った直後であったため逆らうことが出来なかったとされる。
戸次川の戦いにおいて、仙石秀久が真っ先に敗走する中、土佐勢の中備え(1000名)を率いて島津家主力と戦闘を行う。先遣隊の桑名隊(1000名)と共に圧倒的兵力差の中、善戦する。後方にいた父元親は退却出来たが、大きな兵力差・連合軍の連携のなさ・指揮官仙石秀久逃亡等で全軍が壊乱状態となり、信親を始めとする2000名の将兵は完全に包囲されてしまった。しばらくは包囲する島津勢を撃退していたが、豊臣軍の他の隊を撃破した島津諸隊が投入され、信親自身が刀を取って戦う状況となった。桑名太郎左衛門らの有力家臣が戦死する中、信親も島津勢の新納隊の鈴木内膳に討ち取られた。享年22。このとき信親は、信長から賜った左文字の銘刀を振るいながら壮烈な戦死を遂げたとされる。
この戦いの激しさは、有力土豪や一領具足などが軒並み戦死していること(重臣の全滅、7割を超える異常な戦死率)からも推測できる。島津側は信親の遺骸を返還しており、従来の合戦では考えられない程、丁重に扱われた。元来、島津家では勇猛果敢な敵将に対して敬意を惜しまない家風である事や、壊乱した豊臣軍の諸隊とは対照的に徹底抗戦した土佐勢全体への敬意も含まれていると思われる。
[編集] 人物・逸話
- 十河家の当主である十河存保もこの戦闘で討死した。宿敵であった長宗我部氏の嫡男を道連れにしたとも言われる。
- 信親の早すぎる死は、後継者として育て上げていた父・長宗我部元親にとって、最も強い衝撃となり、変わり果てた姿で父の元へ帰ってきた信親を直視出来ず、泣き崩れたと言う。これより後、戦死した家臣団の再建における、家臣間の諍いや後継者騒動によって長宗我部氏は段々と衰弱していくことになり、信親の死は長宗我部氏滅亡の遠因となった。
- 身長は「身の丈六尺一寸」、容貌は「色白く柔和にして」と記され、長身の美形であったといわれる。ルイス・フロイスの「日本史」によるとキリスト教入信を考えていたとされる。父の元親は我が子信親の将来を嘱望し、家臣の人望も厚かったといわれ、信親の人となりを知ることが出来る。
- 信長は信親の噂を聞いたとき、自らの養子に迎えたいと述べたという逸話もある。
- 父の信親に対する愛情は並々ならぬものがあり、信親にあった唯一の女児を盛親の正室として娶わせることで、信親の血統を長宗我部氏に続かせようとしたほどである。
- 本能寺の変の後、一刻も早く勝瑞城を攻め落とそうとして父、元親にたしなめられたとされる。司馬遼太郎の夏草の賦では「そなたは勇気がありすぎる」と書かれていた。
- 中富川の戦いの前哨戦で、一宮城、夷山城を落城させているように、将としての資質は十二分に備わっていたとされる。
- 信親について書かれている本は、森鴎外の長編叙事詩、『長曾我部信親』がある。