量子デコヒーレンス
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量子デコヒーレンスは、量子系の干渉が環境との相互作用によって失われる現象。デコヒーレンス。
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[編集] 概要
「シュレーディンガーの猫」の問題で、「波動関数の収縮」を異なる量子状態間の干渉(遷移確率)の消失(デコヒーレンス:decoherence)であるとする解釈がある。 デコヒーレンスは外部環境からの熱ゆらぎなどが主な原因であるとする。これに関する Caldeira-Leggett理論によって、本質的には「シュレーディンガーの猫」パラドックスは解決できると考える研究者は多い。つまり、猫のようなマクロな系は本質的に孤立系とはなり得ず、常に外界からの揺動を受けている。その揺動は猫の波動関数を収縮させ、その結果、箱の中において猫の生死は観測前に既に決定している、ということである。
ただし、現時点で、あらゆる物理的状況に適用できるほど、厳密な証明が成功している訳ではない。
この「外部環境」は必ずしも空間的に外側である必要すらない(猫の持つ体温でも良い)。実はこのことは我々の住む「マクロな」宇宙の単一性を保証している。量子デコヒーレンスは現在では量子コンピューターの実現への障害としての関心が強い。
[編集] 古典系における時間反転対称性の破れ
古典系においての基礎方程式であるニュートン方程式は時間反転対称性つまり可逆性を持つ。ある運動に対して、その向きを反転した運動が存在する。ところが液体中の古典粒子の運動を記述するランジュバン方程式は不可逆な方程式である。静水の中で発射されたボールは水分子との衝突により減衰し静止する。しかし静止したボールが静水中の分子からの揺動を受けて高速度となる事は起こらない。
ニュートン方程式からランジュバン方程式を導出する際には「粗視化」あるいは「縮約」という平均化操作が行われる。水分子全てとボールを全てニュートン方程式で記述し、そして水分子の自由度をすべて平均化すると、ボールのみに対するランジュバン方程式が得られる。そしてボールは不可逆性を得る(森理論)。
この事は平均化によって水分子の詳細な情報が失われた事によるとも言えるし、「水+ボール」という複合系の部分系「ボール」は、保存系ではないからなんでもあり(環境効果)とも言える。このように粗視化操作によって、我々の住む巨視的な世界の不可逆性が再現される。
[編集] Caldeira-Leggett模型
古典的に不可逆な系においてはユニタリ性が破れる事が期待される。
A.O.CaldeiraとA.J.Leggettは、熱的環境に浸された一つの調和振動子(ばね振り子)がユニタリ性を失う事を理論的に示した。熱的環境としては無数の調和振動子を用い、古典的にブラウン運動(揺動散逸定理)を再現するような物である。初期状態でガウス型波動関数の対(シュレーディンガー猫状態)を用意すると、それぞれの波束中心(平均値)は古典的な減衰調和振動を行い、波束幅は揺動散逸定理を再現する。
それら2つの波束の間の量子干渉は、無環境の場合、2つが接触すれば強くコサイン型の振動を生じる(これは2重スリット実験における干渉縞そのものである)。ところがこのような「摩擦」が存在する系では量子干渉が強く減衰する事が示される。 (A.O.Caldeira and A.J.Leggett. Phys.Rev.A 31 1059-1066 (1985))
量子干渉はユニタリ性から来るため、この結果は系がユニタリ性を失った事を示している。ところで、ここで用いられた手法はFeynman-Vernonの影響汎関数法と呼ばれ、熱的環境の自由度を平均化して対象となる系の振舞いを記述する。これは古典的ランジュバン方程式をニュートン方程式から導出する際に用いられた粗視化操作と同等である。それゆえにその操作によって系のユニタリ性が破れたとも解釈できる。
[編集] デコヒーレンス時間
量子状態間の干渉(遷移確率、状態の重ね合わせ)の減衰時間ΤDの事であり、一般的に力学的な運動の減衰時間ΤRより短い。例えば、温度300K・1グラムの巨視的な物体が、1cmだけ離れた量子状態を持つとする。つまり
Ψ = |x=0> + |x=1cm>
この場合、ΤD/ΤR ~ 10のマイナス40乗 となる。 力学的な減衰時間ΤRが宇宙年齢~10の17乗秒ほどだったとしても、量子干渉は~10のマイナス23乗秒で崩壊する。(Zurek 1984他)
この様に、巨視的な物体が熱的な環境に曝されている場合、その環境効果が微弱であろうとも、物体の「巨視的に異なる」量子状態の重ね合わせは簡単に破壊される。シュレーディンガーの猫のもつ「生」と「死」の状態の重ね合わせもこのようにして消滅すると考えられる。
[編集] 直感的な解釈
「二重スリット実験を考えてみよう。2つのスリットから出た光は干渉し、スクリーン上に濃淡の縞模様を映し出す。ところが、もしもスリット板が外部からの揺動やノイズにさらされている場合どうなるだろうか? 縞模様は振動し、光の濃い部分と薄い部分が混ざり合い平均化されてしまう。実際に、電子を用いた干渉実験の撮影時には、実験施設の近くをダンプカーが通っただけで失敗する。縞模様は量子干渉を表しているので、この事は外部からの揺動が量子性を破壊したことを示している。」
これはよく用いられるデコヒーレンスの直感的な説明であるが、それほど間違いではないと思われるだけでなく、重大な示唆も含んでいる。つまり、デコヒーレンスによって失われるのは粒子の確率密度関数の量子干渉項だけではなく、その他の振動的な部分も破壊するのか、という事である。(⇒the Preferred pointer basis)
[編集] 並行宇宙について
量子力学の多世界解釈(エヴェレット解釈)との関連で、われわれの住む宇宙も複数の異なる量子状態を持つはずである。それを並行宇宙と思っても良かろう、という話がある(レベル3マルチバース)。普通これを否定するには、「巨視的な系に量子力学は使えないだろう」という文脈が用いられた。例えばシュレーディンガーが猫のパラドックスを考案した理由は、巨視系に対して量子力学を適用しようとしていた当時の研究者達への批判であったとされている。
ここでの「巨視的」というのは、かつては空間的スケールの事を指していた。しかしながら現在では、巨視的物体であっても極低温まで冷やすなどして熱揺らぎを除いたばあいには、量子揺らぎが重要になることが知られている。実際、次世代重力波検出実験に用いられるレーザーの反射鏡は巨視的物体であるけれども、量子力学的に取り扱われる事が実験的に必要である。よって古典系かどうかは空間のスケールのみで決定されるわけではない、という考え方が主流になってきている。
とりあえず「量子力学は空間的に巨大な系にも成立する」という仮定の下に、デコヒーレンスを用いて、我々の住む宇宙の単一性を示すことも出来る。我々の宇宙の外には、その波動関数にデコヒーレンスを起こさせるような「観測者」も熱的な環境(「熱浴」)も存在しないと思われるが、我々が宇宙を認識する時には、全ての構成粒子ではなくその「部分系」のみを見ている事に注意しよう。これは我々の認識可能な空間範囲が広い宇宙の一部分である、という意味でもあるし、また我々が「物体」として認識可能な自由度は、全宇宙を構成する自由度の全てではないという意味でもある。「集団的自由度」と言い換えても良い(猫で言えば、猫の外形を形作るだけの自由度)。
[編集] 「情報」とブラックホール、デコヒーレンス
よく「閉鎖系のエントロピーは増大する」と言われる。このような、エントロピーが「増えた」とか「減った」という時には、必ず粗視化あるいは縮約操作が入っている事に注意しよう。粗視化されていない厳密な分布関数…例えば量子力学的な…から決定されるエントロピーは時間依存性を持たない。粗視化されて初めて、系は時間反転対称性を失い、エントロピーの一方的な増加法則が生まれる。
例えば、「ブラックホールの情報量(エントロピー)はその表面積に比例するが、蒸発により表面積は減少する。つまり、情報が失われている」と言った時、この情報は「粗視化された(巨視的な)情報」である。
一方、「ユニタリ的時間発展の特徴は情報を保存する事で、その場合エントロピーは変化しない。」と言った時、その情報は「粗視化されていない(微視的な)情報」である。この2つは一般に、別の物である。
いわゆる「ブラックホールの情報パラドックス」には複数の異なるパラドックスが存在する。ユニタリ性に関する誤解と思われる説明も多いと考えられるため、ここで整理する。
1.「ブラックホールの情報量は、その質量および表面積のみに依存するため、それ以前にブラックホールに落下した物体が何であったかに依らない。そのためブラックホールに落ちた物体は、例えばそれが苺のショートケーキであったか、Tシャツであったかの情報を失う。これは量子力学の原理であるユニタリ性(情報の保存)に反する。これはパラドックスだ。」
- 物体の形状、化学的性質といった巨視的な情報はユニタリ性には従わない。
2.「ブラックホールはその表面上の粒子・反粒子対生成との相互作用によって蒸発し、消滅する。そのときブラックホール内部の情報は全て失われる。これは量子力学の原理であるユニタリ性(情報の保存)に反する。これはパラドックスだ。」
多少、問題を丁寧に述べる。ブラックホールはどのような情報も外部に逃がさないと長年考えられて来た。しかしそれが量子力学の原理であるユニタリ性(情報量の保存)に従うならば、ブラックホールと蒸発する粒子全てを合わせた閉鎖系では微視的情報が保存されるべきである。そのためブラックホール内部の微視的情報と等量の情報を蒸発粒子が何らかの形でブラックホールの外へ持ち出さなくてはならない事になる。この矛盾がブラックホールの情報パラドックスである。そのために量子もつれ現象などを利用してそのメカニズムが考案されようとしている(ホロヴィッツ=マルダセナモデル)。 しかしユニタリ性はあくまでも経験則であり、ブラックホールのような極端な時空で成立するという保証も無い事も記しておく。
[編集] 注記
この量子デコヒーレンスの解釈は、量子力学の最先端の話というよりは、ごく狭いタコツボ的な領域における特殊な見解である、とも言える。このような特殊な解釈で、「シュレーディンガーの猫の問題を解決した」と称する立場は、他にもいくつかあるのだが、しかし、いずれも広く支持されるには至っていない。
ただし、研究者の一部は、「量子デコヒーレンス」という概念を非常に重視する。もちろん、量子力学の様々なパラドックスを量子デコヒーレンスだけで説明するのは難しく、「古典性」の原因が複合的である可能性もあるが、それでも量子デコヒーレンスはシュレーディンガーの猫のパラドックスに対する解答に最も近い位置にあるだろう、と見なす。最近では「情報」と量子デコヒーレンスとの関係も精力的に研究されている。
[編集] 外部リンク
- (百科事典)「The Role of Decoherence in Quantum Mechanics」 - スタンフォード哲学百科事典にある「量子デコヒーレンス」についての項目。(英語)
[編集] 参考文献
- Zurekによる概論:http://arxiv.org/ftp/quant-ph/papers/0306/0306072.pdf
- Caldeira-Leggett理論:"Influence of damping on quantum interference: An exactly soluble model" Phys. Rev. A 31, 1059–1066 (1985)
- 藤崎弘士氏その他による詳細な研究の一例:"Dynamical aspects of quantum entanglement for weakly coupled kicked tops." Phys Rev E Stat Nonlin Soft Matter Phys. 2003 Jun;67(6 Pt 2):066201. Epub 2003 Jun 2.
- 日本語での参考文献:岩波書店新物理学選書「巨視的トンネル現象」高木伸 ISBN 4-00-007412-1
- 日本語での参考文献:「散乱の量子力学」 並木 美喜雄, 大場 一郎 (岩波書店) ISBN 4000054058
- 清水明氏による解説:「量子測定の原理とその問題点」http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/archive/MathSci469(2002).pdf
- 竹内薫氏による血も涙も無いシュレ猫談義:http://kaoru.to/s_column/s_column06.htm
[編集] 関連項目
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[編集] 本題とそれほど関係ないと思われる話題
[編集] ユニタリ性の破れ
量子デコヒーレンスとは、波動関数の時間発展演算子Uがユニタリ性を失う事だと言われている。
ψ(t) = Uψ(0) : U = exp(-i/hbar Ht)
この式の両辺をt微分するとシュレーディンガー方程式となる。ユニタリであるとは、
U†U = 1
であるから、これが成り立つということは、系のハミルトニアンに対し、交換関係を用いて
[H, U†U] = 0
という事である。閉鎖系のHに対し、これは明らかであると思われる。逆に言えば閉鎖系でない、すなわち開放系に対しては成立しない。
[編集] 量子干渉
ユニタリ性は量子力学において、量子干渉として観測される。 波動関数(状態ベクトル)が
の場合、量子力学的な確率密度Pは
となる。この(…)内が量子干渉項である。これは二重スリット実験での干渉縞に対応している。
例えば二重スリット実験において はガウス型波束となる。 この2つの波束が初期状態で重なっているか重なっていないかで、その後の干渉項の振舞いは異なる。 初期状態で重なっていない時、時間発展し2つの波束が重なる事で美しい干渉模様がスクリーンに描かれる。 この干渉模様が異なる量子状態間の遷移を記述する。時間発展による波束の接触が存在しなければ、殆ど量子干渉は発生しない事に注意せよ。その場合(環境による)デコヒーレンスとは無関係に、量子状態間の遷移は殆ど起こらないと考えられる。実際に、孤立したガウス型波束はコヒーレント状態と呼ばれ、最も古典性が強い量子状態である。
[編集] 古典系における時間反転対称性と量子系におけるユニタリ性の類似
空間反転に対するパリティ演算子Pのアナロジーとして、時間反転に対する演算子Rを定義する。
ψ(-t)=Rψ(t) : R = exp(i/hbar H%t)exp(-i/hbar Ht)
(ここで % は時間反転共役t→-t,p→-p etc.を表す) 可逆な系であればRの固有値は1なので、閉鎖系に対して
[H,R]=0
が期待される。
このRの性質をいろいろ考えてみる。
1, 時間反転2回で(t→-t→t)であるから、(RR=1) が成立するとする。その時
H=H% が十分条件。(ハミルトニアンの時間反転対称性)
2, 一方、R自体がユニタリ(R†R=1)であるとすると、
H†=H かつ H%†=H% が十分条件。(ハミルトニアンのエルミート性)
3, Rがエルミートであること (R†=R、実数固有値) を要請すると、
H†= H% かつ H%†= H (ハミルトニアンのエルミート共役と時間反転共役の等価性)
が十分条件として得られる。 この3つの条件のうちで、3が一番強い条件だと仮定する。 この条件が成立するとき、
R = U†U
となり、そのときUのユニタリ性の破れと系の時間反転対称性の破れは同時に生じる事になる。
[編集] シュテルン-ゲルラッハの実験
例えば、シュテルン-ゲルラッハの実験を思い起こそう。外部環境としての磁場が存在している中に、銀粒子ビームを透過させると、ビームは電子のスピン上下に対応して2本に分かれる。例えばここで、分かれたビームの上側だけの銀粒子を回収して調べれば、その荷電子スピンは全て同じ向きだろう。…つまり、電子は磁場を受けて分岐した時点で、スピン状態の重ね合わせを失っているのである…。
外部環境としての磁場が存在する場合には、系は時間反転対称性を満たさない。その中の荷電粒子が速度を持って運動する時、それはローレンツ力によって円運動するが、同じ磁場の向きで同じ粒子であれば、常に同じ向きにしか円運動しないだろう。それに対応した逆運動は存在しない(もしもそれを実現させようとするなら、外部磁場の向きを変えるか、粒子の電荷を反転させるしかない)。つまり、外部磁場は系の時間反転対称性を破る。この事と「電子スピンの重ね合わせの消滅」が関係しているはずである。
この推論自体は、この実験を連続的に繰り返す2重シュテルン-ゲルラッハ実験によって否定される。参考 つまり、磁場を受けた時点では波動関数は「収縮していない」事が示された。しかしこの実験結果は磁場による「状態の確定」が「状態間干渉の消失」すなわちデコヒーレンスであると解釈する事でも説明可能である事に注意せよ(最後にビームを合わせた時に状態間干渉が回復する)。つまり磁場による粒子状態の確定の可能性を否定する物ではない。
[編集] 本題と関係あるが、説明が間違っている項目
以下の内容は正確性に問題があり、専門家による修正が必要とされています。
[編集] 粒子の区別可能性
量子力学的粒子の特徴として「同種粒子が区別できない」という事が良く言われる。それに対し、ニュートン方程式に従う様な古典粒子は「区別できる(可峻別)」。デコヒーレンスが量子力学的世界から古典的世界への遷移を記述するのなら、「区別不可能」→「区別可能」への遷移をも記述しなくてはならない。単純なモデルで説明する。
区別可能な2つのボール{●、○}と、一枚の厚めの板を準備する。その板には左右に2つのへこみがあり、それらにはボールが1つずつ入れられる様になっている。左のへこみに黒いボールそして右に白いボールが入っている状態ベクトルを|●、○>、その逆を|○、●>と書く。
量子力学的に、2つのボールと一枚の板からなる閉鎖系の状態は次の様に書ける。
Ψ = |●、○> + |○、●>
これをこう書いても良い。
Ψ = |◎、◎> : ◎は灰色
もしも人間の視覚が「状態の重ね合わせ」を見る事が可能ならば、こう見えるだろう。この場合、右と左のへこみに入っているボールは(区別不可能というより)「同じもの」である。我々はこの状態をもって「2つのボールは区別できない」と認識している、と考える。そこにデコヒーレンスが生じる事で
Ψ = |●、○>
という様に、粒子の可峻別性が再生される。
[編集] the Preferred pointer basis
量子力学と現実を対応付けている物理量である確率密度関数Ρは、ヒルベルト空間においてどのような状態ベクトルの基底(単位ベクトル)を用いるかに依存しない。ある状態 Ψ=Σ(k)ck・φk を満たす直交基底φに対して回転操作
φ(θ)= exp(iθ)φ を行うと Ψ(θ)=Σ(k)exp(iθ)ck・φk
Ρ(θ)= Ψ*(θ)Ψ(θ) = Σ(k,l)exp(-iθ)ck*φk*・exp(iθ)clφl = Ψ*Ψ = Ρ
であるから、回転角θに依存しない。そうすると、猫の状態ベクトルを
Ψ = |生>+|死>
↓
Ψ(45°)= (|生>+|死>)/√2 + (|生>-|死>)/√2 と回転させても、その結果としての物理は変わらない事になる。
もしここで観測なり何なりでデコヒーレンスが起こって、状態の重ね合わせが破壊されたとすると、
Ψ(45°) = (|生>+|死>)/√2 となり、めでたくゾンビ猫の完成である。
つまり、量子力学的な状態の基底の任意性が、我々の住む古典的な世界では失われている。その結果、量子系を測定(古典系と結合する行為)して出てくる結果もまた基底の任意性は失われている、という事である。そして、古典的世界に耐えうる状態ベクトルの基底が存在し、それは the Preferred pointer basis と呼ばれる。
”pointer”とは測定装置の事を指す。例えば電子スピンと測定装置からなる複合系を考えた場合に、この複合系のとる状態ベクトルも(上記の猫と同様に)基底の選び方には任意性がある。測定前には装置と電子は相互作用していないとすると、やはり測定装置についての基底の選び方もまた任意となる。ところが測定装置の「測定結果」として可能な状態は(スピン↑でした。)あるいは(スピン↓でした。)だけである。このような事から、自然には古典的に好まれる基底が存在するという事が推測された。
上記の二重スリットによる直感的説明を考慮すれば、デコヒーレンスが破壊するのは量子干渉項だけでなく、古典世界に耐えられない脆弱な基底もまた破壊される可能性があるだろう。事実、ウィグナー(半古典)分布関数を用いた解析によって、環境系と相互作用する量子系のウィグナー分布関数は時間発展と共にガウス波束(コヒーレント状態)へと近づく事がわかる(これは古典系における中心極限定理と似ている)。このガウス波束に対応した状態ベクトルこそがPreferred basisである。Zurek らはこのような、外部環境からの揺動によって決定論的方程式に従い予測可能性を持つ古典的基底が選択される事を「ふるい」になぞらえて the Predictability Sieve と呼んでいる(Zurek 1993、2002)。
[編集] The Wigner semiclassical distribution
ウィグナー分布関数は量子状態を運動量と位置の分布関数として記述する実数の関数であり、古典系での位相空間の分布関数に相当する。負の値を取る事があるため分布関数としての物理的解釈は不可能であるが、その負の領域が量子効果を表現しておりデコヒーレンスの研究に便利である。
これは運動量pで縮約(変数の全区間で積分、射影と等価)すると位置に関する分布関数が、位置xで縮約すると運動量に関する分布関数が得られる。
開放系に対し、その波動関数を定義する事は難しいため、ウィグナー分布関数は密度行列を用いて次のように一般化される。
環境効果によってウィグナー分布関数の形は初期状態によらずガウス型へと変化してゆく。ガウス型分布関数は量子力学的不確定性 を最小とする、最も「古典的な」量子状態であり、上記Preffered basisと関係があると推測されている。デコヒーレンスが生じると足のように伸びた負の領域が消失してゆく。また量子カオス系においては、ウィグナー関数の作り出す幾何学模様がプランク定数よりも小さなミクロ構造を生じる事などが興味深い話題として知られる。
[編集] コペンハーゲン解釈、エヴェレット解釈との関係
コペンハーゲン解釈とエヴェレット解釈をシュレーディンガーの猫の例で波動関数で表現してみよう。
コペンハーゲン解釈:
- 箱を開ける前 : φ(猫) = |生きた猫>+|死んだ猫>
- 箱を開けた後 : φ(猫) = |生きた猫>
エヴェレット解釈:
- 箱を開ける前 : Ψ(観測者+猫) = |観測者> ( |生きた猫>+|死んだ猫> )
- 箱を開けた後 : Ψ(観測者+猫) = |生きた猫を観測した観測者> |生きた猫>
+|死んだ猫を観測した観測者>|死んだ猫>
デコヒーレンスは量子系の状態ベクトルと環境の状態ベクトルの相関が生じるため量子系の異なる状態間の遷移振幅が小さくなることだと理解できる。この様に書いてみると、コペンハーゲン解釈は(猫のみの情報を記述する)一体波動関数、エヴェレット解釈は(観測者と猫の情報を同時に記述する)二体波動関数にそれぞれデコヒーレンスが作用したと再解釈が可能である事がわかる。デコヒーレンスを用いて、これらの解釈は将来的に統合されてゆくだろう。