補陀落渡海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。宗教的な裏付けに基づいた自殺的行為、殉教の一種。[1]
目次 |
[編集] 概要
- 補陀洛山寺も参照
南方に臨む海岸に船を浮かべ、行者が乗り込む。船は閉ざされており、脱出を想定した扉はない。四方に四つの鳥居または門があるのが特徴的で修験道の形式をを示している。それぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる。沖に出るまでは伴船が曳航し綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者が生きたまま帰ってくるのを防ぐ。渡海者が無事浄土に辿り着き、現世に帰ってくるような事が無い為である。目的地はこの世から隔絶した地であるため、無事に着いたかどうかは定かではない。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀落山寺の住職が渡海行の主体であったが例外が『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条にみえ、下河辺六郎行秀という元武士の者が武士の生活を捨て補陀落山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。
実際に渡海船が出立した地は紀伊(和歌山県)の那智勝浦が、有名で他に足摺岬、室戸岬、那珂湊などがある。
その捨て身とも思える強靱な信仰は戦国時代後期から伝道のために日本を訪れた、キリスト教宣教師達の関心も惹いたらしく、ルイス・フロイスなども著作に記している。
ただし後代の江戸時代になると信仰も薄れてしまったのか、補陀落山寺の住職を死んでから水葬で葬るという形に変化する。
[編集] 渡海の思想
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。補陀落は華厳経にも説かれるとおり、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。
多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった。
[編集] 関連作品
補陀落渡海を取り上げた有名な文学作品として、井上靖の短篇「補陀洛渡海記」がある。
[編集] 脚注
- ^ ただし当時において「自殺」という観念であったかどうかは疑問も残る。殉教と絶望による自殺との大きな違いは「死後の救済」を信じている点である。
[編集] 参考文献
『補陀落―観音信仰への旅』川村湊 作品社 2003年 ISBN 4878935928