藤沢武夫
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藤沢 武夫(ふじさわ たけお、1910年11月10日 - 1988年12月30日)は実業家。東京市出身。本田宗一郎の参謀として本田神話のシナリオを書き、本田宗一郎と共に本田技研工業(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたことで知られる。「技術の本田、経営の藤沢」と評されている。戸籍上は「藤澤武夫」である。劇作家の藤沢大介は孫にあたる。
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[編集] 来歴・人物
1910年、東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。比較的裕福な家庭に育つも父親の事業が失敗し、藤沢家は貧困の一途をたどる。旧制京華中学校を卒業後、1934年から「三ツ輪商会」という鋼材小売店に勤める。1939年には独立して「日本機工研究所」を設立。しかし戦争が激化したため同社をたたみ福島県に疎開する。戦争終結後も福島にとどまり製材業を営む。
1949年8月に本田宗一郎と出会い、同年10月には製材業を引き払い上京、ホンダの常務に就任。以後東京営業所の開設を皮切りに、ホンダの財務並びに販売を一手に取り仕切るようになる。1952年には専務、1964年には副社長に昇格。この時代、実質的には藤沢がホンダのCEO、本田がCTOを務めていたと評する人も多い。ちなみに1954年に発表された本田の「マン島TTレース出場宣言」は藤沢の手によるもの。
1973年には本田が社長を退くのに併せ、副社長を退き取締役最高顧問となる。1983年には取締役からも退く。この引退は後継育成を見極めた藤沢が決断したもので、本田はその藤沢の決断を聞いた際に、藤沢の意思をくみ取り、藤沢が居ての自分ということで、引退を決断したと言われている。本田66歳、藤沢62歳の若過ぎる潔い引き際であった。
その後は東京六本木で骨董店を開き趣味人として余生を過ごし、1988年12月30日に78歳で死去。本田宗一郎もその三年後1991年8月5日に没している。
死後1989年1月24日に、従四位勲三等旭日中綬章を追贈された。藤沢は元々政治家との付き合いやいわゆる財界活動をしてこなかったため、その功績のわりに勲位は低いと言われている。
「経営に終わりはない」「松明は自分の手で」などの著作もある。
[編集] 評価
「万物流転」の法則から逃れ、未来永劫に輝き続ける企業をいかに作るかが藤沢経営学のテーマだった。 派閥を作らせないためと企業の活性化の為に社長室は作らず、部屋は社長も役員も仕切りがないワンフロアにしたり、役員の子弟は入社させないといった規則を作り、本田カラーの基盤を確立した。また、本田宗一郎に自転車につけるエンジンを開発させた上で、全国の自転車屋にダイレクトメールを送り、自転車屋を二輪販売代理店にしてしまうといった魔術的な戦略を得意とした。さらに鈴鹿サーキットは当初、藤沢個人の邸宅を抵当に入れて作られた。一般道でスピードを出して死んでいく若者達に心を痛め、またより良い製品を作り出す実験場として作られたという。
「マン島レース出場宣言」や「資本金を大幅に上回る価格で外国製工作機械を購入」といった「本田宗一郎伝説」の逸話は、あたかも本田が独断で行ったかのようなイメージで語られる場合が多い。しかし本田は常に藤沢に意見やアイディアを求めており、藤沢の後押しがあるからこそ大胆な計画を発表できたのだと言われる。本田は藤沢の手のひらの上で踊らせてもらっていた、と評する者もいる。本田の数々の逸話は、藤沢が創作・脚色したものも多いという。(社長引退のエピソードなど)
本田と藤沢については、例えば松下電器の松下幸之助やソニーの盛田昭夫・井深大など日本における理想的な経営像として語り継がれると思われるが、本田と藤沢の場合には、強い経営者(実質的には藤沢)と強い理念・ビジョンの構築者(本田)が同時に両立できていたという点で、日本社会では非常に特色があるといえるだろう。特に米国など企業経営が進化する現代に求められている経営スタイルの一つがこのようなものであり、例えばGoogleやYahoo!など新興大企業も似たスタイルを取っている。
日本においてはカリスマ経営者がいたからといって、その企業が必ずしもビジョナリーカンパニーになるわけではなく、その経営者は”個性あるオーナー”や”中興の祖”として終わり、ビジョンが引き継がれ、そのビジョンが更に会社の発展に寄与することは少ない。ホンダの場合には米国MBAの教科書にも載るほどのグローバルに認められたビジョナリーカンパニーとなったのは、本田の個性よりも藤沢の姿勢に負うところのほうが大きいとも言えるだろう。
ただ、藤沢は必ずしも万能な経営者だったわけではなく、例えばホンダ・N360を巡る欠陥車騒動(詳しくはホンダ・N360#ユーザーユニオン事件を参照)の際には、いわゆる消費者運動への理解度の低さから、被害者側の代理人としてホンダとの損害賠償交渉に臨んだ「日本自動車ユーザーユニオン」を一種の恐喝団体と誤認し、結果として同事件に対する対処が遅れ新車の販売不振を招いたりもしている(1973年の引退劇も「実際は同事件を契機とした経営不振に対する責任を取るための辞任であった」と分析する評論家もいる[1])。
[編集] エピソード
- 日本では一般に知られていない藤沢だが、米国MBAでは多々取り上げられる人物である。
- 現役時代の藤沢は、本社とは別に銀座の越後屋ビルの一室を借り、調度品にいたるまで全て黒で統一し、その部屋に篭っては経営戦略を練ったという。
- 洒落モノで知られ、着流し姿で出社する事もしばしばあったという。無類の舞台好きであり、歌舞伎はもとより、世界各国のオペラ座に着物姿で登場して余生を過ごしたという。
- 隠居後の藤沢は、「自分は引退した老骨」と本社を訪れたり、自分から本田の経営に口を出す事をしなかった。そして、政界財界人との交流はあまりなく、むしろ先代の中村勘三郎や作家の五木寛之などの文化芸術人との世間話を楽しむ風流人としてその生涯を閉じた。五木寛之は藤沢武夫を「世の中には、さまざまな人がいる。…だが、上質な人間、となると、これはきわめてまれな存在ではあるまいか。藤沢武夫さんは、この、きわめてまれな上質の、それも最上質の人間族の長老のような人物だ。骨太ながら粋で、稚気と含羞がほどよく同居していて、…人を酔わせる人、と私は藤沢さんのことを思っている」と評している。
- 社内において、本田宗一郎は「落合のオヤジ」、藤沢武夫は「六本木の叔父上」という敬称があった。
- 藤沢は車を運転しない。立場上取得した免許証は、外出先で靴ベラが無かった時の代用品として使用したというエピソードがあり、それを聞いた本田宗一郎は「藤沢らしい」といって笑ったそうである。社長でありながら「一度も会社の実印を見た事が無い」と語っていた本田の証言と合わせ考察すると、いかに二人の分業制が明確だったかを示すエピソードである。藤沢の死後、テレビの取材に対し好子夫人は「主人は晩年、本田さんと出会えた事が、自分が生きてきて一番良かった事だったと話しておりました」と答えている。
- 藤沢は舞台や音楽鑑賞を趣味とし、本田はゴルフ等行動的な趣味を持っていた事から、一時期不仲説が浮上した事があるが、「いつも手をつないで一緒にいるのを仲良しとは呼ばない。私達は離れていても、今この瞬間、相手が何を考えどうするかが手に取るように分かる」とコメントした。
- 着物姿で出社する事もしばしばあった藤沢武夫が社内を歩いていると、「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」と掃除婦のオバサンに声をかけられた。振り返って、藤沢は「私はこれでもここの社員なんですよ」と着物の袖をパタパタしながら、はにかんだような笑顔を見せ立ち去ったという。怪訝に思った掃除婦が、すぐさま上司に報告すると、それが本田技研の副社長であると判明し、次にすれ違った際、先日の無礼を詫びると「こんな格好で社内をフラフラしている私の方が悪いんですよ」と答えた。またその隣で大笑いしている作業服を着た小柄な老人が「俺もネクタイしめた方がいいかね」と藤沢と冗談を言い合っていたらしい。後に、それが本田宗一郎であった事も判明したというエピソードがある。
- 趣味で始めた常磐津が玄人並の腕前であったという。文王の名も持っている。
- 「私は経営学など勉強した事がない。何冊か手にとって読んだ事はあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った」と語っていた。「経営者とは 一歩先を照らし 二歩先を語り 三歩先を見つめるものだ」との言葉を残している。
- 藤沢は「ホンダの社長は技術畑出身であるべき」という言葉を残している。この言葉が現在も守られているためか、初代の本田から現職の福井威夫に至るまで歴代の社長は全員元エンジニアである。
- 藤沢の死後、1989年本田宗一郎は日本人として初めてアメリカで自動車殿堂入りを果たした。授賞式を終え、帰国後、本田は成田から直接藤沢邸に向かい、藤沢武夫の位牌に受賞したメダルを見せながら語りかけた。「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ・・」[2]
- ホンダの第三代社長を務めた久米是志は藤沢をこのように回顧している。「お亡くなりになられる直前にお会いしました。「今は景気が良くて、みんな不動産を担保に利益を上げているようだが、近い将来必ず手痛いしっぺ返しを食らうだろう。本田は自動車メーカーなんだから本業以外で儲けようと考えるな。どんな甘い話があっても乗るなよ。」と仰っておられました。 今になって思えばバブルの事だったんですね。 言いつけを守ったおかげで、本田はバブルの痛手が他社よりありませんでした。」
[編集] 作行会
藤沢と本田は、ホンダの株式及びそれに伴う配当金などから得た莫大な創業者利益を元に、1961年に苦学生への研究助成を行う基金として「財団法人作行会」を設立した。作行会には、藤沢が考案した条件があった。
- 奨学金の用途は問わない(遊びに使おうが、生活費に使おうが自由)
- レポートは必要ない
- 将来の進路も自由
- 返還の必要はない
- 誰が支給しているか知らせてはならない
作行会は1983年に解散するが、本田・藤沢の二人が作行会のスポンサーであったことは当時は徹底的に伏せられ、解散記念謝恩会の席で初めて二人がスポンサーであった事実が公開された。後に、事実を知った元奨学生は驚き、本田・藤沢を招きパーティーを開いた。元奨学生の中には、奨学金で車を買い「日本一周をした」という者もいたが、藤沢はそれをうれしそうに聞いていたという。ちなみに作行会からの助成金を受け取った研究者の一人に毛利衛がいる。