米沢隆
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米沢 隆(よねざわ たかし、1940年1月28日 ‐ )は、日本の政治家、全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟(UIゼンセン同盟)政治顧問。
衆議院議員(9期)、民社党委員長(第8代)、新進党幹事長、同党副党首、民社協会会長を歴任した。
[編集] 概要
鹿児島県出身。ラ・サール中学校・高等学校を経て1964年、京都大学法学部卒業。同年、旭化成工業株式会社入社。同社において組合運動に目覚め、1964年全旭連(現旭化成労働組合)書記長就任。1971年、宮崎県議会議員に当選。
1976年、衆院選で宮崎1区から出馬し初当選(当選9回)した。1978年、委員長・佐々木良作の下で民社党の青年部長と学対委員長に就任した。1985年、佐々木の委員長退任に伴い、新委員長・塚本三郎の下で政審会長に就任。
1988年、リクルート事件発覚で委員長・塚本の進退問題に発展。1989年、塚本の委員長辞任で、副委員長・永末英一が委員長に就任、米沢は書記長に就任した。1990年2月、衆院選で20議席台割れの惨敗に終わり委員長・永末の進退問題に発展し辞任したが、新委員長・大内啓伍の下でも書記長に留任した。
1993年6月、宮澤内閣不信任決議案が成立し、7月の衆院選で現有微増の結果に終わった。 8月6日、細川内閣で委員長・大内が厚生大臣に就任すると書記長として執行部を運営した。
1994年5月、民社党委員長に就任した。 書記長に政審会長・中野寛成、政審会長に副書記長・伊藤英成を起用した。 6月、細川、羽田孜の2代の連立政権に代わって、自由民主党・日本社会党・新党さきがけ連立の村山富市政権に交代した。
1994年12月、民社党最後の委員長として解党を決断し新進党結成に参加。 党首選に出馬し落選するも副党首に就任。1995年12月の党首選で幹事長・小沢一郎を支援し第2代党首選出に貢献し幹事長に就任。1996年8月、衆院選を前に執行部改造で幹事長から副党首へ昇格し、国対委員長・西岡武夫が幹事長に就任。
1996年10月、衆院選で宮崎1区から出馬するが自民党候補に敗北し議席を失った。2000年6月、衆院選に復活を賭けるも落選した。2002年10月、古賀一成の小選挙区補選出馬に伴い比例区で復活当選(繰上当選)した。2003年11月の衆院選では小選挙区で落選するも比例区で復活当選した。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で落選し政界を引退した。
[編集] 関連項目
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