ワン・ワン・ライス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ワン・ワン・ライスは、細川内閣・羽田内閣における与党の指導的立場にいた小沢一郎・市川雄一・米沢隆の3人を指す言葉。とくに小沢・市川の関係は「一・一ライン(いち・いち‐)」と呼ばれた。また、これに対抗する大内啓伍・村山富市・武村正義の3人を称して「ビッグ・ムラ・ムラ」と称するマスコミもあった。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 自公民路線
平成元年(1989年)、第15回参院選で大敗した自由民主党は内閣・党執行部を刷新、党総裁に海部俊樹が、党幹事長には小沢が就任した。
新執行部の課題は過半数割れした参院対策であった。そこで小沢は公明・民社両党の協力が必須として公明党書記長の市川・民社党書記長の米沢に接近した。
第15回参院選、平成2年(1990年)の第38回総選挙で日本社会党が野党で唯一議席を伸ばす中、公明・民社両党は議席を減らした。市川・米沢は党勢の停滞に危機感を持ち、かつ現実路線に移行しない社会党に失望、社公民路線の転換を検討していた。
平成3年(1991年)、小沢は東京都知事選挙において現職の鈴木俊一の推薦に否定的であった公明党の意向を汲み、磯村尚徳を擁立(自民党本部・民社党本部・公明党都本部推薦)するも敗北、小沢は責任をとって幹事長を辞任したが自公民の協力関係の礎を築く事に成功した。
平成4年(1992年)、PKO協力法案の採決で社会党が日本共産党と徹底抗戦する中、政府・自民党案の修正に公明・民社は合意し成立させ、社公民路線は終焉、自公民路線へ舵を切った。
[編集] 非自民・非共産連立与党
平成5年(1993年)、自民党最大派閥の経世会(竹下登派)の内部対立から始まった権力闘争の結果、小沢・羽田孜らは「政治改革」を唱えて自民党を離党、新生党を結成した。新生党は社会・公明・民社と連立政権樹立で合意し、細川護煕率いる日本新党・武村正義が代表の新党さきがけを取り込んで非自民・非共産の細川政権が発足した。 与党となった各党党首はすべて閣内に入ったため、党の意思決定は幹事長クラスの会議『与党代表者会議』で行われる事になり、小沢(新生党代表幹事)、市川、米沢が与党第1党の社会党を抑えて主導権を握った。