佐々木良作
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佐々木良作(ささきりょうさく、1915年1月8日 - 2000年3月9日)は、政治家。第4代民社党中央執行委員長。電産労組の初代書記長から政界へ。兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)出身。豊岡中学、旧制松本高校を経て、京都大学法学部卒業。
[編集] 来歴
- 1947年、第1回参議院議員選挙の全国区に無所属で出馬し当選。
- 1955年、第27回衆議院議員総選挙に右派社会党から出馬し初当選。同年、左右の社会党が統一される。
- 1960年1月27日、社会党を離党し民主社会党結成に参加し1代西尾末広委員長で副書記長と教宣局長を歴任。
- 1967年、2代西村栄一委員長で国対委員長を務め、春日一幸書記長の副委員長昇格に伴い書記長に就任。
- 1970年に党名を民社党と変更。
- 1971年、西村委員長の急死で春日副委員長が委員長に昇格した。3代春日一幸委員長で書記長に留任する。この間に書記長として社会党の江田三郎書記長と公明党の矢野絢也書記長らで連合政権構想=社(江)公民路線を樹立する。一方で佐々木は、自民党の中曽根派(中曽根康弘=安全保障、与謝野馨=エネルギ-政策)とパイプを築く。
- 1974年に副委員長に昇格し書記長の職を塚本三郎国対委員長に譲る。
- 1977年、念願の委員長に就任。4代佐々木良作委員長の下、3度の衆院選(第35、36、37回)で党勢を回復する。
- 1980年5月22日、社会党提出の大平正芳内閣不信任決議案対応を巡り社公両党と距離を置いたが民社党の両院議員総会で紛糾し春日常任顧問が不信任案の反対を主張したが結局賛成し衆参同日選へ。選挙戦で佐々木委員長は、「社会党の防衛政策は不明確」と、公然と連合政権構想の相手である社会党を批判し、また社公民に自民党良識派を含めた国民的大連合政権構想を提唱した。『朝日新聞』によると、民社党支持者は自民との連立政権支持と社公民連立政権支持で二分された。
- 同年6月12日、大平首相の急死で自民党に同情票が流れ大勝されるが、民社党は選挙中の社会党批判が功を奏したか、議席は微減(35→32)に留まった。ただし開票中に向井長年副委員長兼参院会長が急死した。(自民党の議席は公認だけで248→284と大幅増。社会党の議席は107で変化無し。公明党は57→33、共産党は39→29と敗北し、その分の議席を自民党が奪った形となった)
- 1984年12月には佐々木委員長が公明党の竹入義勝委員長と、自民党総裁選で反主流派が画策した二階堂進副総裁擁立構想に巻き込まれる事態になった。
- 1985年、佐々木委員長が辞意を表明し、後継に塚本書記長を指名。5代塚本三郎委員長で常任顧問就任。
- 1988年、リクルート事件で塚本委員長に辞任を勧告した。
- 1989年、6代永末英一委員長で常任顧問に留任。
- 1990年1月、通常国会召集中に衆院解散を以って議員辞職=引退。引退後は入退院の日々を繰り返す。
- 2000年3月死去。享年86(満85歳没)。当時の税務署公示によると、遺産総額は、13億円(主な遺産は東京都新宿区の自宅不動産や株式、預貯金など)であり、自民党議員顔負けの蓄財家であったことが伺える。
[編集] エピソード
- 中曽根元首相が産経新聞のインタビュ-で、1983年12月衆院選で自民党が過半数割れした際に新自由クラブと共に民社党に連立政権の参加を打診した事を告白した。
- 民社党の一方の雄・春日一幸とは終生ライバル関係にあった。委員長を辞任した1985年の党大会では灰皿をつかんであわや殴り合い寸前の大喧嘩に発展したことがある。
[編集] 関連項目
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