福岡城
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福岡城 (福岡県) |
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南ノ丸多聞櫓 |
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通称 | 舞鶴城、石城 |
城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 黒田長政 |
築城年 | 1601年 |
主な改修者 | 黒田長溥 |
主な城主 | 黒田氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 櫓4棟・門3棟、石垣、堀 |
指定文化財 | 国の重要文化財(多聞櫓・二の丸南隅櫓) 国史跡 福岡県文化財(潮見櫓・大手門・ 祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門) 福岡市文化財(名島門) |
再建造物 | 二の丸北隅櫓、大手門(復元中) |
位置 | 北緯33度35分3.77秒 東経130度22分59.17秒 |
福岡城(ふくおかじょう)は日本の城の一つで、所在地は福岡県福岡市中央区城内。別名、舞鶴城、石城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の福岡藩黒田氏の居城であった。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
福岡城は福岡市の中心部に位置する平山城である。 現在の城跡の大半は舞鶴公園となっており、平和台陸上競技場などのスポーツ施設がある。かつては西鉄ライオンズ・福岡ダイエーホークスの本拠地であった平和台野球場もあった。また、福岡高等裁判所、福岡市美術館などの公共施設もある。公園内には門・櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、潮見櫓・大手門・祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二の丸北隅櫓が復元されている。
城跡からは昭和62年(1987年)に平安時代の外交施設である鴻臚館の遺構が発見され、古来より地理的に重要な拠点であったことを窺い知ることが出来る。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 安土桃山時代・江戸時代
黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、一躍筑前一国52.3万石の大封を得て名島城に入城し福岡藩が成立した。名島城は立花鑑載が築き、小早川隆景が拡張したものである。しかしながら、大藩の居城としては城・城下町ともに手狭に感じ、現在の福岡城の城地である福崎丘陵を新城候補地に選定した。
入封早々の慶長6年(1601年)には新城建設が開始された。孝高は築城の名手であり、また普請奉行となり縄張りを計画した野口佐助一成は江戸城・大坂城の築城にも加わった石積みの名人であった。7年の歳月をかけ慶長12年(1607年)に、47の櫓を配し、面積は九州一の広さを誇る面積47万平方メートルと、大封に相応しい城郭が完成した。築城の名手であり近隣の熊本藩主加藤清正もこの城を賞賛した。特に一成が指揮した石垣が素晴らしく、別名「石城」とも呼ばれる。
城と城下町は、黒田家再興の地備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名を採って「福崎」より「福岡」と改められた。因みに那珂川を挟んで東にある古来からの港湾商業都市は「博多」である。
江戸期に数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に大改修が行われた。
[編集] 近現代
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、その後多くの建造物が解体もしくは移築された。
大正9年(1920年)祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築された。昭和58年(1983年)には再び元の地に移築された。
昭和32年(1957年)8月29日福岡城跡は国の史跡に指定された。昭和46年(1971年)には多聞櫓・二の丸南隅櫓が国の重要文化財に指定された[1]。また、昭和27年(1952年)に潮見櫓、昭和31年(1961年)に大手門・旧母里太兵衛邸長屋門、昭和32年(1957年)に祈念櫓がそれぞれ福岡県文化財に指定された。
平成12年(2000年)不審火により下の橋大手門の一部を焼失した。そののち福岡市によって大手門をかつての楼門に復元する計画が進められ、2007年9月28日には上棟式が行われ、2008年秋頃に門周辺の外構整備を終える予定としている。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(85番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 構造
福崎丘陵に建造され、本丸を囲むように二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された梯郭式の平山城である。東側は那珂川を天然の堀として活用し、また西側の干潟を大堀として活用した。この大堀は現在、市民の憩いの場である大濠公園となっている。城下町は城の北側すなわち海側に配された。
[編集] 天守の存在
従来の通説では、正保3年(1646年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされている。
近年、元和6年(1620年)3月16日付の当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が三男で次期藩主の忠利に宛てた手紙に「長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」[2]と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守が存在していた可能性が出てきている。天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
福岡城や鴻臚館の整備・活用を趣旨とするNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開。将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示している。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 重要文化財指定名称は「福岡城南丸多聞櫓 1棟」で、南隅櫓も含めて1棟の建造物として指定されている。
- ^ 元和6年(1620年)3月16日付細川忠利宛て細川忠興書状の原文(抜粋)「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候。城をとられ申し候はば、御かげを以て取り返し申す可くと存じ、右の如く申し付け候よし、申し上げらると承り候」