盧毓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
盧毓(ろいく、183年-257年)は、後漢・魏の政治家。字は子家。盧植の四男で末っ子。子は盧欽・盧珽。本籍は涿(たく)郡涿県(現在の河北省涿県)。
[編集] 経歴
数え年10歳で父を失い、二人の兄も後漢末の戦乱で失った。袁紹・公孫瓚の争いで食糧の無い状況だったが、盧毓は夫を亡くした嫂と父を亡くした兄の子を養い、学問・品行によって称えられた。
曹丕が五官中郎将となると召し出され、崔琰の推挙で冀州の主簿となった。戦乱の時代であり、逃亡兵は厳罰に処され、妻子も連座して死刑に処せられることになっていた。名を白という逃亡兵の妻は、結婚して数日だったがそれでも死刑を求刑された。盧毓は『詩経』『尚書』などの古典を引いて死刑は重すぎると反対。曹操は盧毓の主張に感嘆した。
曹丕が魏の皇帝となると、黄門侍郎に移り、さらに各地の太守を歴任した。しかし曹丕の機嫌を損ねたことから、一時左遷されたこともある。
曹叡の代になると、諸葛誕や鄧颺らが名声をはせ、「四聰八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれていた。曹叡は彼らを嫌い、「しかるべき人物を得るかどうかは盧生にかかっている。官吏の選挙(選抜)は名声ある者を採ってはならない。名声は画餅(画に描いた餅)のようなもので、飢えを満たすことはできない」と詔勅を下した。盧毓は「名声は特別な人物を招くには不十分でも、普通の人間を得るにはよろしいでしょう。普通の人間は教えを敬い善を慕いましてそのあとではじめて有名になるのですから、憎むべきものではありません」と答えた。
盧毓は無官の管寧を推挙したが、曹叡は登用する気になれなかったので、次善の候補を尋ねた。盧毓は韓曁・常林の起用を勧め、曹叡は韓曁を起用した。盧毓は人材登用に人格・品行を最優先し、その後ではじめて才能に触れた。李豊がその理由を尋ねると、「才能を善行に役立てることができなければ、才能が役に立たないということだ」と答えた。
曹芳が即位すると、関内侯の爵位を賜った。曹爽が実権を握ると、外地に出されたが、世論の批判が多く内勤の光録勲に転任した。249年、司馬懿がクーデターで実権を握ると、司馬懿は司隷校尉を兼任させ、曹爽の裁判を担当させた。その結果、曹爽らはみな死刑にされた。
255年、毌丘倹らが反乱を起こすと、鎮圧に赴いた司馬師の留守番として物事を取り仕切った。256年、重病となり官位を辞退したが、司空に昇進した。
257年死去し、成侯と諡された。