盧植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
盧植(ろしょく、? - 192年)は、後漢末の政治家・将軍・儒学者。字は子幹。子は盧毓他少なくとも3人。本籍は涿(たく)郡涿県(現在の河北省張家口市涿鹿県(涿鹿鎮))。
[編集] 経歴
身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたという。幼くして鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、学び終えたあとは郷里へ帰って講学した。古今の書に通じ、博学で節義も高かったことから人望が厚かった。そのため霊帝の建寧中、朝廷に召しだされて博士となり、175年(熹平四年)、九江の南夷が反乱を起こすと、文武を兼ね備えたところを買われて九江の太守に任命された。その後、侍中、尚書と昇進を続けている。この間、東観で馬日磾や蔡邕・楊彪・韓説らとともに五経の校訂や漢紀の編纂にも携わっており、『尚書章句』や『礼記解詁』といった著作がある。また、党錮の禁による不遇時代(175年前後)には幽州涿郡で学舎を主宰し、劉備や公孫瓚に学問を教えている。
184年(光和七年)、黄巾の乱が起きると北中郎将に任命され、反乱軍の指導者である張角の討伐に向かった。盧植は張角の軍を破って功を立てたが、宦官の左豊が要求した賄賂を断ったため、「盧植は戦おうとしない」と讒言され、罪に落とされて官職剥奪の上で処罰されてしまう。後に皇甫嵩の取り成しにより許されて、再び尚書となった。
袁紹らによる宦官誅罰にも参加し、皇帝らを連れて逃げる宦官の前に、大斧を持って立ちふさがっている。
189年(光熹元年)、董卓が実権を掌握し、皇帝を劉弁から献帝にすげ替えようとすると、これに反対する。そのため董卓によって処刑されかけるが、海内の学者・大儒として名高く人望の厚かった盧植は、蔡邕や彭伯の取り成しで助命された。その後、董卓の専横に嫌気が差し、老齢を理由に官職を辞して引退し、上谷の軍都山に隠遁した。後に袁紹に招かれて軍師となり、192年(初平三年)に病死した。曹操は盧植の死を聞いてひどく悲しみ、子の盧毓らを官職につけている。
[編集] 創作における盧植
『三国志演義』などでは黄巾の乱討伐でかつての教え子である劉備と再会し、劉備が「先生」と呼んで尊敬している様子が描写されている。また、宦官の讒言で陥れられて囚人車で都に護送される場面では、行き会わせた劉備らが驚き、張飛が力ずくで救おうとするのを叱咤して止めるなどの見せ場がある。
史実でも功績・人格ともに名高い盧植との交流によって、当時まだ無名だった劉備らを引き立てる演出と思われる。