琴糸路
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琴 糸路(こと いとじ、1911年11月5日 - 1956年)は、日本の映画女優である。河合映画設立第1作でデビューし、大都映画、そして合併後の大映でも、スター女優でありつづけた。
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[編集] 来歴・人物
1911年(明治44年)11月5日、東京市本郷区金助町(現在の東京都文京区本郷3丁目)に成田啓二郎の次女として生まれる。幼少のころから日本舞踊を習い、父の郷里である秋田県北秋田郡鷹巣町(現在の北秋田市鷹巣)の旧家から小学校に通ったが、11歳のときに東京に戻った日の翌日、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災に罹災した。まもなく家庭の事情から、浅草「花屋敷」(現在の花やしき)の舞台に出るようになる[1]。
1928年(昭和3年)2月、河合プロダクション(当時。同年5月に河合映画製作社に改称)社長の河合徳三郎にスカウトされて、同社の設立に参加、北豊島郡三河島町町屋(現在の荒川区町屋4-5)の「町屋撮影所」[2]で製作された設立第1作、同年3月1日公開の『青春散歩』、翌週公開の第2作の『恋風に吹かれて』の両作に主演の里見明の相手役として出演、映画女優としてデビューした[1]。
1929年(昭和4年)暮れ、5社競作となった吉川英治原作の『貝殻一平』(監督村越章二郎)で、河合では雲井竜之介の相手役に琴を起用、松竹下加茂の若水絹子(監督井上金太郎)、東亜キネマの泉春子(監督後藤岱山)、帝国キネマの歌川八重子(監督渡辺新太郎)、遅れて翌年2月に公開された日活太秦の酒井米子(監督清瀬英次郎・岡田敬)ら、メジャー各社のトップ女優と競い合った。1930年(昭和5年)には、前年公開のヨーエ・マイ監督のドイツ映画『アスファルト』を翻案した時代劇、『あす晴れて』(監督高松操、脚本八尋不二)に松林清三郎の相手役として出演した。主演を重ねるようになり、松竹蒲田の栗島すみ子、帝キネの歌川八重子とならぶ悲劇女優といわれるようになった[1]。
1932年(昭和7年)に神奈川県大磯町の坂田山で起きた「坂田山心中事件」を題材にした歌謡曲『天国に結ぶ恋』が大ヒット、同事件を題材にした『大磯心中 天国に結ぶ恋』を吉村操監督、琴糸路主演で河合は製作、松竹蒲田による五所平之助監督の『天国に結ぶ恋』と同日の6月10日に公開をぶつけた。翌1933年(昭和8年)に入っての吉村監督の『涙の渡り鳥』、小沢得二監督の『渚に唄ふ 島の娘』も同様、ヒット曲をテーマにした競作に琴は主演し、好評を博した。同年6月の河合の「大都映画」への発展的改称後も、ひきつづき同社でトップ女優でありつづけた[1]。
1942年(昭和17年)1月、大都は戦時統合で「大日本映画製作」(大映)へと吸収合併、創立第1作のオールスター映画『維新の曲』(監督牛原虚彦)に出演したのを皮切りに、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵の相手役を演じ、B級映画会社だった大都映画出身としては破格の待遇を受けた。1943年(昭和18年)に伊賀山正徳監督の『海ゆかば』で水島道太郎の相手役を演じたのを最後に、翌1944年(昭和19年)春に32歳で退社、引退した[1]。
その後は古物商の平井与四郎と結婚、京都に住んだが、第二次世界大戦後の1956年(昭和32年)に死去した[1]。推定44歳没。