漢江の奇跡
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漢江の奇跡 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 한강의 기적 |
漢字: | 漢江의 奇蹟 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
ハンガンエ キジョク |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語: | Miracle on the Han River |
漢江の奇跡(ハンガンのきせき、かんこうのきせき)とは朴正煕政権下に於ける大韓民国の急速な経済成長を指す。同国の首都、ソウル特別市を横切る漢江にちなむ。
目次 |
[編集] 概要
5・16軍事クーデターによって政権を得た朴正煕は経済開発を掲げることによって大衆の支持を求めた。当時、国内総生産はソ連を真似て計画経済を押し進めていた北朝鮮が上回っていて、朴政権の韓国も五カ年計画方式の計画経済を導入することとなる。また、朝鮮戦争により壊滅的打撃を受け、1人当たりの国民所得は世界最貧国グループであった韓国経済がベトナム参戦と、日本からの多額の経済援助と技術援助を要因に漢江の奇跡と呼ばれる成長を遂げた[1][2][3][4]。
[編集] 詳細
朝鮮戦争後の韓国は農産物、原料・半製品などの原資材をアメリカ合衆国からの援助に頼っており、これらを原材料とした消費財の加工産業を育成していた。しかし、アメリカによる援助政策の転換により、1957年を境として対韓援助は減少を始め、脆弱であった韓国経済に深刻な影響を与えた。李承晩政権は援助に依存する経済からの脱却を企図して「経済開発三カ年計画」(1960~62年)を作成したが、政権自体が四月革命(1960年)で崩壊してしまう。続く張勉政権も経済再建第一主義を標榜して「経済開発五カ年計画」(1962~66年)を策定したが、これも朴正煕による5・16軍事クーデター(1961年)により実施されなかった。
朴正煕は民生苦の解決と、自立経済基盤の確立を目標とし、新たに「第一次経済開発五カ年計画」(1962年‐66年)を推進した。財閥の不正蓄財の摘発を進め、定期預金金利の引き上げや貯蓄運動を推進して国内資本の動員を図った。しかし期待したほどの成果は得られず、1964年には計画の修正という行き詰まり状態に陥った。この状況を打開するために、外資導入による経済建設の道を選ばざるを得なかったと言われる。当時、国際信用力を欠いていた韓国が外資を求める先に選んだのが、同盟国であるアメリカであり、日本との国交正常化であった。
1965年、韓国は日本と日韓基本条約を結んだことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円)の日本からの資金供与及び貸付けを得ることとなった。国際協力銀行によると1960年半ばから90年代までにトータル6000億円の円借款が行われ[2]、韓国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種インフラの開発[5]や浦項総合製鉄をはじめとした企業強化をさせていった[3]。
また朴政権は、アメリカとの関係改善を推し進め、ベトナム戦争に派兵した。アメリカ側は派遣された全ての韓国軍将兵に対し戦闘手当を支払い、その大半は韓国本国へ送金された。これらを含むアメリカからの「ベトナム特需」の総額は十億ドル(当時で三千六百億円)を遥かに上回り、実質的には朝鮮戦争時の日本における「朝鮮特需」以上の利益を韓国にもたらした。韓国がベトナム派兵を開始した1965年からベトナム戦争が終結する75年までの十年間に、韓国の国民総生産(GNP)は14倍、保有する外貨および外国為替などの総額は24倍、輸出総額は29倍に、いずれも驚異的な伸びを示した。この間の韓国経済の成長率は年平均10%前後だった。
サムスングループや現代グループ等の韓国を代表する財閥が形成されたのも、大韓航空が初めて就航したのも、韓国の南北を結ぶ京釜高速道路が開通したのも、浦項製鉄所ができたのも、全てベトナム参戦と日本との国交正常化以降のことである。
更に韓国経済が飛躍するための踏み台が2つ用意された。ひとつは、韓国製品に対するアメリカの輸入規制の大幅緩和である。これによって、韓国製品がアメリカ市場になだれ込んだ。 もうひとつは、アメリカの全面的な軍事援助で、その結果、本来ならば国防費に当てるはずの国家予算を重工業などへの投資に回すことができた。
こうして、韓国経済は急成長を遂げ、国力で北朝鮮を逆転し、国民所得を10倍にするという公約を目標より3年早く達成した。そして、この政策によりソウル大都市圏への人口・産業の集積が進み、プライメイトシティとなった。
[編集] 問題点
国内に強権的な体制が残ることになり、産業構造においても経済成長から農村や中小企業が取り残されるなどの歪んだ形成をすることになった。また、日本からの個人補償を流用した事を国民に公開しなかったため、後に賠償請求の見解の違いなどで日韓関係に禍根を残すことになった。
[編集] ベトナム戦争参戦の目的
韓国政府の公式的な見解は「共産主義の膨張を食い止める」ということであるが、ベトナム派兵当時の外務省長官だった李東元の回顧録に「朴大統領のベトナム参戦は欲しいものは全て手に入れた成功作といってよい。特に経済的実利は大変な成果だった。当然最初から練りに練ったシナリオだった」(李東元『元老交友記』)と記されている。また、これまでの通説ではアメリカの要請に応じて韓国は派兵したことになっているが、近年アメリカの研究者から逆に韓国がアメリカに派兵を持ちかけたとする異論が出され、こちらの方が説得力をもちつつある。 ベトナムへ向かったのは、将兵ばかりではなく、国内よりも数倍から十数倍も高い賃金を目当てにしていた韓国人労働者もおり、その数は1965年から5年間だけで、のべ五万人を超えていて、「ベトナム成り金」、「ベトナム行きのバスに乗ろう」が流行語になっていた。 静岡大学助教授の朴根好が自身の著書『韓国の経済発展とベトナム戦争』にて、軍と民を問わず、韓国人にとってベトナムは、戦場ではなく市場だったと指摘している。 1995年5月12日、韓国の教育部の長官が、ベトナム参戦をめぐる長官の談話で「6・25(朝鮮戦争)は同じ民族同士の殺し合いでしたが、ベトナム戦争はアメリカの傭兵として参加したもので、大義名分の弱い戦争でありました」と述べ、更迭されている。
[編集] 脚注
- ^ 韓国の経済発展の軌跡立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回)岩田勝雄
- ^ a b 国際協力銀行情報誌「jbic today」2004年8月号等
- ^ a b 韓国の経済成長に果たした円借款の役割国際協力銀行
- ^ 大韓民国民団群馬県地方本部発行「オスンドスンvol9」
- ^ 『日本の請求権資金、韓国が最も効率的に使用』2005年1月19日東亜日報
[編集] 参考文献
- 朴根好 『韓国の経済発展とベトナム戦争』、御茶の水書房、1993年、ISBN 978-4275015211.