渡邉博幸
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渡邉 博幸(わたなべ ひろゆき、1970年6月29日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。現在は中日の球団職員。
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[編集] 人物
中学時代はバレーボール部に所属。日本大学藤沢高等学校時代は練習にほとんど出ておらず、本格的に野球に取り組んだのは日本大学時代からという異色の経歴の持つ。一・三塁を中心とした内野の守備固め、代打をこなす貴重な存在(いわゆるユーティリティープレイヤー)として活躍。特に卓越したグラブさばきを生かした一塁手としてのバウンド送球の処理は評価が高く、何度もチームを救った。左翼手としての出場歴もある。
[編集] 来歴
- 1995年 中日からドラフト4位指名され、入団。同期入団は荒木雅博、門倉健ら。背番号は5。
- 1997年 少ない打席ながらも.346という高打率を残す。
- 1999年 2本のサヨナラヒットを放つなど、右の代打の切り札として一軍に定着し優勝に貢献。主砲ゴメスの後を受けて三塁の守備固めに入ることもあったものの、後のような好守のイメージはまだ強くない。
- 2002年 出場試合数を3ケタに乗せる。一塁手が固定されないチーム事情に加え、守備面での評価が確固たるものになり始めたことが出場機会増の要因となる。川上憲伸のノーヒットノーラン達成試合にもファインプレーで貢献している。数試合ながら4番で先発出場することも。
- 2003年 シーズン114試合出場。全体的に前年を上回る成績を残す。
- 2004年 「守りの野球」を掲げる落合博満新監督に守備力を高く評価される。守備型の一塁手として、攻撃型のオマール・リナレスと併用ながらレギュラー定着。前半こそ打撃不振に苦しんだが後半に大きく巻き返し、終盤には4割超の打率を記録、リーグ優勝に貢献。シーズン打率.286、124試合出場に加え、自身初タイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞。
- 2005年 一塁手タイロン・ウッズの守備固めとして活躍。打撃面でも、打数は少ないながらも得点圏打率.579という驚異的な勝負強さを見せる。
- 2006年 交流戦以降、打撃不振の立浪和義に代わって、一時三塁のポジションに定着。その後は代打や一塁ウッズの後の守備固めが主となる。また、打数は少ないながらも得点圏打率.394を記録。
- 2007年 FA権を取得するまでに至ったが、出場機会は激減。中村紀洋の新加入などにより、一塁や三塁の守備固めの出番が限られてしまう。
- 2007年11月2日に球団から戦力外通告を受け、同月5日に引退を表明。引退後は中日の球団職員(運営部に所属し動作解析を担当)となった。11月30日に自由契約公示。
[編集] 略歴
- 身長・体重 183cm、88kg
- 投打 右投右打
- 出身地 神奈川県横浜市
- 血液型 B型
- 球歴・入団経緯 日本大学藤沢高等学校-日本大学-三菱自動車川崎-中日(1996年-2007年)
- プロ入り年度・順位 1995年(4位指名)
- 年俸:5,000万円(2007年)
- 中日で同僚だった山本昌は高校の5年先輩であり、日大藤沢高校野球部監督で、山本昌の実弟である山本秀明は高校、大学、さらに社会人時代の同級生である。
- 中日で同僚だった落合英二は日大の1学年先輩、真中満(ヤクルト)は日大の同級生、北川博敏(オリックス)は日大の後輩である。
[編集] 年度別成績
- 打撃成績
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 | 推定年俸(万) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996年 | 中日 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | .250 | 1200 | |
1997年 | 中日 | 34 | 52 | 6 | 18 | 5 | 2 | 0 | 27 | 4 | 0 | 13 | 8 | .346 | 940 |
1998年 | 中日 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | .000 | 1300 |
1999年 | 中日 | 81 | 89 | 11 | 25 | 9 | 0 | 1 | 37 | 16 | 2 | 12 | 16 | .281 | 1200 |
2000年 | 中日 | 76 | 102 | 6 | 26 | 7 | 0 | 0 | 33 | 16 | 0 | 10 | 20 | .255 | 3000 |
2001年 | 中日 | 53 | 55 | 8 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 3 | 0 | 10 | 8 | .200 | 2850 |
2002年 | 中日 | 110 | 167 | 20 | 45 | 8 | 0 | 4 | 65 | 17 | 0 | 13 | 27 | .269 | 2700 |
2003年 | 中日 | 114 | 188 | 18 | 51 | 7 | 0 | 2 | 64 | 17 | 1 | 14 | 30 | .271 | 3200 |
2004年 | 中日 | 124 | 290 | 30 | 83 | 8 | 0 | 2 | 97 | 22 | 1 | 22 | 44 | .286 | 3500 |
2005年 | 中日 | 104 | 81 | 7 | 22 | 4 | 0 | 1 | 29 | 10 | 1 | 5 | 19 | .272 | 5000 |
2006年 | 中日 | 103 | 111 | 14 | 28 | 6 | 0 | 1 | 37 | 16 | 0 | 6 | 21 | .252 | 5000 |
2007年 | 中日 | 53 | 23 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 7 | .130 | 5000 |
通算 | 859 | 1165 | 125 | 313 | 55 | 2 | 11 | 405 | 123 | 6 | 112 | 202 | .269 | 5000 |
[編集] 獲得タイトル
- ゴールデングラブ賞 2004年
[編集] 余談
- 大晦日は毎年ナゴヤ球場で練習をしていた。[1]
- 2002年から2006年まで毎年100試合以上出場している選手の中で、その間一度も規定打席に到達していないのは渡邉だけであった。
- 2003年5月14日のヤクルト戦で、後の守備の名手である荒木・井端の両者に「神技」とたたえられる“ヒールトス”をする(セカンドを守っていた渡邉が、センターよりのゴロをかろうじて捕球する。そのとき勢いで自分でグラブを踏み、グラブが外れた衝撃でボールが飛び出してしまう。しかしそれが自分のかかとにあたって二塁ベース上の荒木へのトスとなり、一塁走者を封殺。結果はセカンドゴロ)。
- プロ時代の風貌からは考えられないが、日大時代は体重が110kgとかなり標準体型よりオーバーしていた。その原因は合宿での食事に毎食マヨネーズをつけて食べていたからだと語っていた。
- 自身が見た目の地味な選手であるのに対し、奥さんが美人であるため、一部ファンからは「嫁の旦那」と呼ばれることもある。
- 上述の通り、現在は中日球団職員で動作解析を担当。ナゴヤ球場でのウエスタン・リーグの試合ではネット裏最前席に陣取り、ビデオカメラで選手を撮影する渡邉の姿を見ることができる。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
中日ドラゴンズ 1995年ドラフト指名選手 |
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1位:荒木雅博 / 2位:門倉健 / 3位:藤井優志 / 4位:渡辺博幸 / 5位:大塔正明 / 6位:益田大介 / 7位:日笠雅人 |