池田長発
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池田 長発(いけだ ながおき、1837年8月23日(天保8年7月23日) - 1879年(明治12年)9月12日)は旗本で備中国井原の領主を務めた人物。備中松山藩初代藩主池田長幸の三男、池田長信を初代とする井原領主の池田家の10代目にあたる。幕末に外国奉行を務め、1863年(文久3年)から1864年(元治元年)にかけて遣欧使節団を率いてフランスを訪問した。官位は従五位下、筑後守。
1837年(天保8年)に幕府直参旗本の池田長休(いけだながやす)の四男として江戸に生まれ、井原領主池田長溥(いけだながひろ)の養子となった。少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だった。長発の領地は1200石と小さく、最初は小普請組から身を起こしたが、1862年(文久2年)には目付、1863年(文久3年)には火付盗賊改・京都町奉行と歴任し、同年9月に対外交渉を行う外国奉行に抜擢された。官位を叙され筑後守を称したのはこの時期である。
当時は攘夷論が強く、この年の3月には孝明天皇が攘夷勅命を発し、さらに下関戦争や薩英戦争などが起きて諸外国との軋轢も高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後の10月、攘夷派とみられる浪士3人が横浜近郊でフランス軍士官を殺害する井土ヶ谷事件が起きたが、その犯人は結局見つからなかった。幕府は、事件に対するフランス側の非難と国内の攘夷圧力の両方に押され、事件の解決・謝罪・および攘夷派をなだめるための横浜鎖港(開港場だった横浜を再度閉鎖する)の交渉に当たらせるため、見識に優れた池田筑後守長発を欧米諸国へ派遣することとした。
長発は27歳にして、正使として34名からなる遣欧使節団を率いることとなり、1863年12月にフランス軍の軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海やインドなどを経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮っている。
1864年(文久4年・元治元年)3月、マルセイユに入港してパリに着いた一行はナポレオン3世に謁見し、フランス政府に事件を謝罪し、195,000フランの扶助金を遺族に支払った。パリのグランドホテルに滞在した一行はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも会っている。
しかし横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わった。また長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、フランス政府と「パリ約定」を結んだ。一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、同年暮れに帰国した。この時長発は、物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造など多数の書物や資料をフランスから持ち帰っている。
長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府は「パリ約定」を破棄、長発の石高を半分に減らし蟄居を命ずるなどの罰を与えた。1867年(慶応3年)には一転して罪を許され軍艦奉行となったが、健康を害していたため数カ月で職を辞して井原に戻り、以後政治にはかかわらなかった。井原に学問所を作り青少年を育てることを構想していたが、1879年(明治12年)に没した。