池田由之
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池田 由之(いけだ よしゆき、天正5年(1577年) - 元和4年5月18日(1618年7月10日))は、戦国時代後期の武将。池田元助の嫡男である。妻は蜂須賀家政の娘。赤穂藩家老大石内蔵助の曽祖父。
[編集] 経歴
天正5年(1577年)に池田元助の嫡男として誕生するも、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で父・元助は祖父・池田恒興と共に、徳川家康率いる徳川軍の襲撃を受けて討死した。 池田家の家督は由之の叔父である池田輝政に引き継がれたが、輝政は由之を不憫に思い、成長後の慶長6年(1601年)に播磨国佐用郡周辺に2万2000石を賜った。平福に城下町を構え利神城を改修した。1607年に駿河御普請役を勤めた際に、徳川家康から馬を拝領している。 慶長14年(1609年)には3万2000石に加増され、備前国下津井城の城番になる。慶長18年(1613年)に叔父の池田輝政が死去。その嫡男の池田利隆が家督を継ぎ、下津井から播磨国明石城へ移ることとなる。しかし元和2年(1616年)に若年の利隆も死去し、その嫡男の池田光政が家督を継ぐが、翌年に因幡・伯耆国へ移封させられる。これに伴い由之も明石城から米子城へと移ることとなった。
この頃の池田家中では筆頭家老の伊木忠繁ら要職にある人物も死去しており、幼君の池田光政を補佐して活動したものの、元和4年(1618年)に江戸から米子へ戻る途中、由之は怨みにより大小姓の神戸平兵衛に刺殺された。
由之の嫡男・池田由成は父の遺領3万2000石を相続し、光政の家老となった。 由成の娘の熊子は赤穂藩士の大石権内に嫁ぎ大石内蔵助を産んだ。
次子の池田由英は、蜂須賀至鎮が若死した際に、その嫡子である蜂須賀忠英の後見役であった蜂須賀家政が外孫である由成を家老として蜂須賀家に仕えさせ、忠英を補佐させた。由英は、池田姓を名乗っていたが、後に蜂須賀姓を名乗ることを許され、通称・“蜂須賀山城”と呼ばれた。 由之の四男・之政は、若くして畿内を遊歴していたが、正保元年(1644年)に鳥取藩主池田光仲に招かれ、その家臣となった。