構造生物学
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構造生物学(こうぞうせいぶつがく)とは、生物を形作る巨大な生体高分子、特にタンパク質や核酸の立体構造を研究する生物学の一分野。結晶学、NMR などの技術を用いる。 タンパク質の立体構造の理論的推定についてはタンパク質構造予測を参照。
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[編集] 歴史と発展
光学顕微鏡で観察が可能な細胞、そして構造解析(X線結晶構造解析、NMRなど)が比較的容易な低分子の生体分子(脂肪酸、補酵素など)に関しての分子構造研究は比較的古くから研究が発展していた。特に電子顕微鏡が開発された後は、比較的大型の生体分子(リボゾームなど)程度の大きさの観察が可能になった。
しかし、分子生物学が発展する前の半世紀前までは、まだ生体の主要成分と知られていたタンパク質およびDNAなど核酸の生体高分子の立体構造に関する知識はまだほとんど知られていなっかた。
そんな中、1953年にワトソンとクリックが遺伝子の本体であるDNAの構造をX線回折写真などの情報から2重らせんであることを明らかにし(X線回折像を実際に撮影したのはロザリンド・フランクリン)、DNA2重らせん構造に基づいていかにして遺伝情報が子孫に伝わるかが明確に示された。そして提案されたセントラルドグマによって分子生物学は黎明から一挙に飛躍の道を歩み始める。
タンパク質についてはX線回折実験によってえられる回折強度データから位相決定(いそうけってい)するまでのプロセスよりも、単純にタンパク質の結晶化に大量のタンパクが必要であることがネックとなり、当初はミオグロビン、リゾチームなどが試験された。日本で最初に得られたタンパク質立体構造はカツオ心筋のチトクロームcである。
現在は遺伝子工学的に大腸菌発現系で組み換えタンパクを大量に生産でき、またタンパク質結晶化へのプロセスも体系化されてきた。放射光という新しい強力で波長選択可能なX線光源が利用され、ヘンドリクソンによって新たなMAD法という位相法が開発されたことと、セレン化タンパク質の利用が開発されたことで1990年代に解析能力が指数的に増加した。また、この間に得られた回折強度データの処理、位相決定、構造精密化などのプロセスが飛躍的に進歩したソフトウェアとともに、グラフィクス技術を含むコンピュータの性能が指数関数的に向上してきたことから、蛋白質構造データバンク (PDB; http://www.rcsb.org/pdb/) に登録されるタンパク質立体構造は年々増加してきている。また、NMRに関してもコンピュータの発展はもちろんのこと、大腸菌発現系を用いて安定同位体を容易にタンパク質に組み込めるようになったために、分子量5万程度のタンパク質まで扱えるようになってきた。
日本では、2002年度から5年かけて3000種類のタンパク質の立体構造解析を行うことを目標とした『タンパク3000プロジェクト』が進行中である。その拠点として世界最大のシンクロトロン放射光施設であるSPring-8(兵庫県佐用郡)とフォトンファクトリー(高エネルギー加速器研究機構、茨城県つくば市)が放射光X線結晶構造解析データ測定に使われ、理化学研究所横浜研究所GSC(神奈川県横浜市)のNMR施設でNMRを使って日本全国の大学、研究機関など構造生物関連の多数の研究グループによって日夜タンパク質の立体構造解析が行われている。
[編集] 構造解析の方法
生体分子の構造解析を行う方法としては、以下のようなものがある。
- X線結晶構造解析
- シンクロトロン放射光結晶構造解析
- NMR(核磁気共鳴)
etc.
規則正しく配列した結晶に短波長の電磁波を当てる方法(X線結晶構造解析)と隣り合う原子間の距離と角度を調べていく方法(NMR)が一般的である。
タンパク質の立体構造の理論的推定についてはタンパク質構造予測を参照。
[編集] X線結晶構造解析の手順
X線結晶構造解析 (X線回折) の方法でタンパク質の構造解析を行う手順を記す。
- 目的タンパク質を大量に調製する(約10mg以上)
- 目的タンパク質の結晶化
- X線回折(X線の照射)
- 回折強度を測定
- 位相決定(回折強度から結晶構造因子を求めるためには位相の情報が必要である。位相は重原子同型置換法、異常分散を利用した方法、あるいは分子置換法によって決定する。重原子同型置換法や異常分散を利用した方法を行うには白金や金、水銀、セレンなどの化合物で修飾したタンパク質の結晶が必要であり、分子置換法を行うには類縁のタンパク質の立体構造がすでに得られていなければならない。)
- 電子密度の計算(結晶構造因子からフーリエ合成で電子密度を計算する。)
- 分子モデリング
- 構造の精密化(手動で構築したモデルには歪みや誤りがある。そこで、人の手での修正作業と、原子間距離などに束縛条件を付けて、コンピュータ計算でもっとも歪みが少ない構造に修正する作業を、構造因子とよく一致する構造に収束するまで続ける。)
以上の手順で、律速の要因になっているのが、2.の結晶化および5.の位相決定のプロセスとなる。結晶化は以前よりは容易になっているとはいえ100%うまく行くものでなく、また得られた結晶が構造解析に使用できるかどうかは、位相決定を行うまでわからない。位相決定についてはコンピュータの能力の上昇に伴いスピードアップしているとはいえ現在も困難なプロセスの一つである。ただし、近年多波長異常分散(たはちょういじょうぶんさん)という新しい位相決定法を用いることにより、このプロセスはスピードアップしている。また、回折強度の決定にも従来は感光フィルムを用いていたが、現在はより高感度でダイナミックレンジの大きなイメージング・プレートや、読みとり速度が速いCCDなどのX線検出器を用いている。
X線結晶構造解析の特徴は、結晶化したタンパク質の立体構造が決定し、アミノ酸配座が厳密に決定するということである。コンフォメーションの変化の様子を捉えることはできないが、結晶化の条件を変えてやることによって、タンパク質の様々な状態を静的に捉えることができる。また、ラウエ法によってミリ秒などの短時間の状態をとらえる試みもなされているが、全てのタンパク質結晶に適応できるわけではなく、課題も多い。
[編集] NMRの手順
NMR (核磁気共鳴) の方法でタンパク質の構造解析を行う手順を記す。
以上の手順で律速の要因になっているのが3.スペクトルピークの帰属となっている。これはX線結晶構造解析でいう位相決定に対応する。また、NMRの実験データの粗さによってコンピュータによる立体構造の計算が複雑になるときもある。
NMRの特徴は、高濃度の溶液中のタンパク質をサンプルとするために、溶液中におけるゆらぎをある程度捉えることができることにある。ダイナミックなコンフォメーションの変化を捉えることは難しいが、より可動性の高い部位などの測定が可能である。X線結晶構造解析と比較すると、安定同位体標識タンパク質の調製のコストが高いことや、高分子量のタンパク質の構造解析に弱い点などが劣っている。
[編集] 構造生物学の成果
構造生物学は多くの知見を生物学にもたらしたが、特に重要なものを特記しておく。
- ATP合成酵素F1部位の立体構造の決定
- リボソーム大サブユニットの詳細な構造および翻訳プロセスの解明
- バクテリオロドプシン立体構造の決定および光駆動プロセスの解明
- チトクロームc酸化酵素(呼吸鎖の末端酵素)立体構造の決定およびプロトンポンプ機構の解明
etc.
重要と思われる構造解析は枚挙に暇が無いが、ATP合成酵素およびリボソームは生命活動の本質に関わるため、またバクテリオロドプシンおよびチトクロームc酸化酵素は構造解析の困難な膜タンパクなので特記した。
[編集] 構造生物学の課題
コンピュータや測定機器の発展により、多くのタンパク質の構造解析が可能ではあるが、結晶化についてはいまだに実験上困難な障壁の一つである。結晶化しやすいタンパク質は好熱菌や高度好塩菌に多いといわれており、結晶化の困難なタンパク質については後回しにされている風潮がある。
また、膜タンパクの立体構造はでてきているとはいえ、ほかの重要な膜タンパク立体構造に対する知見はいまだ深いとはいえない。膜タンパクの結晶化を工夫するか(層状に結晶を発展させるという方法もある)、より大量に精製できる方法の開発が要求されている。
また、タンパク質の折りたたみ(フォールディング)過程の解明やタンパク質のダイナミックなコンフォメーションの変化については、既存の方法では観測が困難である。折りたたみ機構については短いペプチドをコンピュータシミュレーションで折りたたませる方法などがあるが、現実の折りたたみ機構を明らかにする何らかの方法の開発が急がれる。コンフォメーション変化については、一分子観測などのテクニックを用いて行っている。またコンピュータシミュレーションで研究している例もある。
いずれにせよ、タンパク質や核酸の立体構造が判明しても、生物体内で起きている反応の素過程まで理解できている状況とはとてもいえない。静的な立体構造から、より動的なタンパク質の挙動を測定することが求められつつある。