棋士 (囲碁)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
棋士(きし)は、碁打ちともいい、囲碁を打つ人の総称。
プロを指す事が多いが、アマチュアでも棋士と呼ぶ事もある。
目次 |
[編集] 呼称
室町時代末期に囲碁を専業とする者が現れると、彼らは「碁打」と呼ばれるようになる。江戸時代に家元が俸録を受けるようになると、「碁衆」あるいは将棋の家元との区別で「碁方」「碁之者」などの呼び名が使われた。また江戸時代には「碁士」「碁師」などの呼び方も生れ、地方においても賭碁をする者は碁打と呼ばれた。明治になると「碁客」「碁家」「棋客」「棋家」といった呼び方がされ、また棋戦に出場する者は「選手」とも呼ばれ、大正時代の裨聖会もこの呼び名を使った。日本棋院が設立されると「棋士」を使うようになり、以降の各組織でもこれに倣い現在に至っている。また日本棋院以前の囲碁専業の者や高手に対しても棋士と呼ぶことが多い。
[編集] おもな現役棋士
[編集] タイトル保持者 (2008年4月22日現在)
[編集] 七大タイトル経験者
- 趙治勲(二十五世本因坊・名誉名人)
- 林海峰(名誉天元)名人8期 本因坊5期 天元5期など
- 大竹英雄(名誉碁聖)名人2期 碁聖7期など
- 石田芳夫(二十四世本因坊)名人1期 本因坊5期など
- 武宮正樹 名人1期 本因坊6期など
- 小林光一(名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)
- 王立誠 棋聖3期 十段4期 王座4期など
- 小林覚 棋聖1期、碁聖1期
- 依田紀基 名人4期 十段2期 碁聖6期
- 王銘エン 本因坊2期、王座1期
- 片岡聡 天元2期
- 柳時熏 天元4期、王座1期
- 趙善津 本因坊1期
- 山田規三生 王座1期
- 橋本昌二 十段1期、王座2期
- 工藤紀夫 天元1期、王座1期
- 羽根泰正 王座1期
- 彦坂直人 十段1期
- 羽根直樹 棋聖2期、天元3期
[編集] その他の棋士
[編集] 女性の棋士
[編集] おもな海外棋士
- 韓国
- 中国
- 台湾
- アメリカ合衆国
- その他
[編集] おもな引退棋士
[編集] おもな物故棋士(昭和以降)
[編集] おもな物故棋士(昭和以前)
[編集] 最強棋士議論
囲碁の歴史において史上最強候補として主に以下のような人物が挙げられる。
それぞれその時代に於いて圧倒的な成績を挙げた棋士である。おおよそ囲碁理論に於いては未だ研究が十分に進んでいるとは言えず、新しい定石が誕生している序盤はともかく、中・終盤に於いては現代の棋士たちよりも江戸時代の棋士たちのほうが勝るとの意見も多く存在している。(ただし現在の囲碁が持ち時間に追われてのことに対して、江戸時代の囲碁は時間無制限であるということに注意。)
この中で最強の呼び声が最も高いのは道策であろう。丈和曰く「道策先生と十番やったら最初は新しい定石のおかげで5勝5敗くらいには持ち込めるだろう。しかし次の十番では道策先生が新しい定石を憶えられるので一番も取れないに違いない」と。小林光一曰く「道策先生の棋譜を並べていて、これは十目くらい道策先生が負けるだろうと思っていた所、ヨセに入ってあれよあれよと言う間に逆転してしまう。」と。もちろんこれには先人に対しての敬意を表した部分もあるだろうが、道策の御城碁で負けたのが二子局のみ、しかもその二子局で僅差に詰め寄ったと言う実績は最強を裏付けるのに十分であろう。
丈和は、力は古今無双と謳われ、江戸時代には道策と並んで碁聖と称された。幻庵因碩などの強敵を捻じ伏せての名人就任が評価されている。しかしその名人就任に当たっての策謀が不人気につながり、最強に推す声はあまり強くない。
秀策は御城碁19連勝と言う実績に加え、その人格に対する人気から最強に推す声も多い。それに加え、漫画『ヒカルの碁』にて名前が知れたことにより更にその傾向は強まった。道策・丈和・秀策の三人に対して棋聖と尊称している。
秀栄・秀哉両名人に関しては、同時代の同格の棋士たちを打ち負かした経歴はあるものの、名人位に就いて以降は対局が極端に少ないために評価を保留する声も多い(これは別に両名人に限ってのことではなく、名人になって以降は「お止め碁」といって対局をあまりしないのが慣習であった)
呉清源は新しい囲碁の時代を切り開いた立役者であり、木谷実・岩本薫・雁金準一・橋本宇太郎・坂田栄男・高川格ら超一流棋士との十番碁でことごとくこれを退けた。この実績から史上最強に推す声が強く、「昭和の棋聖」と呼ばれる。ただ趙治勲は、やや逆説的な意味ながら「呉清源師はそれほど強くなかったのではないか」とも言っている(コミ碁の時代に対応できなかったという意味が込められている)。
坂田栄男は呉清源の後の碁界で、その全盛期には7冠王、年間30勝2敗、29連勝などの記録を残し、棋士の間でも「坂田は遠くなりにけり」と言われるほどの圧倒的な強さを示した。また数々の妙手や、高川格、藤沢秀行、林海峰らとの幾度もの名勝負でも強い印象を残している。
小林光一・趙治勲の両者は激しいライバル関係にあり、二人でタイトルを独占するほどの勢いを示した。しかし共に国際棋戦での実績が少ないのが難点である。
李昌鎬は国際棋戦の全てに一回以上優勝するグランドスラムを達成するなど圧倒的な戦績を残し、現代の棋士の中では史上最強候補に挙げられる数少ない棋士の一人であろう(2004年からは不調であるが)。韓国では李昌鎬を300年に一人の天才と呼んでいる。300年とは道策以来との意味であろう。
しかし、「最強は誰か?」と言う質問に対しては「やってみなければ解らない」と答えるしかない。
[編集] 棋士の呼び名
[編集] 日本
- 「前聖」「後聖」歴史上棋聖と称えられる、本因坊道策を前聖、本因坊丈和を後聖と呼んだ。明治時代になって本因坊秀策の評価が高まり後聖に据えることも多い。
- 「五弟子」「五虎」「六天王」本因坊道策の弟子の、小川道的、佐山策元、井上道節因碩、星合八碩、熊谷本碩、吉和道玄
- 「囲碁四哲」江戸時代、名人の力量ありとされながら名人とならなかった、本因坊元丈、安井知得仙知、井上幻庵因碩、本因坊秀和
- 「天保四傑」天保期前後に活躍した、伊藤松和、阪口仙得、太田雄蔵、安井算知 (俊哲)。嘉永頃には囲碁四傑と呼ばれていたが、明治37年の安藤如意「坐隠談叢」で天保四傑と記され定着した
- 「方円社四天王」小林鉄次郎、水谷縫次、酒井安次郎、高橋杵三郎
- 「戦後派三羽烏」「アプレゲール三羽烏」藤沢秀行、梶原武雄、山部俊郎。「棋道」編集長の宇崎玄々子により命名。
- 「竹林」大竹英雄、林海峰
- 「黄金トリオ」木谷実門下の、加藤正夫、石田芳夫、武宮正樹。3人の若手時代に雑誌で連載した「黄金トリオ研究室」で命名。
- 「アマ四強」アマチュア棋戦の優勝常連である、菊池康郎、村上文祥、平田博則、原田実。西村修、金沢盛栄、三浦浩、中園清三らを加えて、五強、六強、七強などとも呼んだ。
- 「若手四天王」山下敬吾、羽根直樹、張栩、高尾紳路。ただし近年は四人が「若手」のレベルにとどまらない活躍をしているため、単に「四天王」と呼ばれることも多い。
[編集] 中国
- 「大龍」1980年代に中国の囲碁を世界レベルに引き上げた、聶衛平
- 「中龍」1990年代に聶衛平を打ち破って一強時代を築いた、馬暁春
- 「七小龍」1990年代後半からトップ棋士となった、常昊、周鶴洋、邵煒剛、王磊、羅洗河、劉菁、丁偉
- 「小虎」2000年代になってトップ棋士となった、古力、孔傑、黄奕中、王尭、謝赫、邱峻、劉星など
- 「小豹」小虎の次の世代でトップを狙う棋士、彭筌、王檄、王雷、唐莉、陳耀燁など
[編集] 参考文献
- 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
- 増川宏一『碁 ものと人間の文化史59』法政大学出版局 1987年
- 小堀啓爾「江戸・明治著名棋士名鑑」「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)