名人 (囲碁)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名人(めいじん)は
- 江戸時代、幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として作られた地位。一世本因坊本因坊算砂(日海)が織田信長から「そちはまことの名人なり」と称揚されたことに由来し、これがあらゆる分野で使われる「名人」という言葉の起こりとされる。名人の地位に就いたもののうち、寺社奉行から許しを得て碁界の取りまとめ役となったものが「名人碁所」である。名人碁所は棋士全ての段位認定権を持ち、囲碁界の最高権力者であった。この地位をめぐり数々の死闘、暗闘が繰り広げられた。江戸時代から昭和初期に至るまでは九段が即名人を意味しており、天下にただ一人だけと定められていた。日本棋院が設立されて大手合による段位の認定が行われるようになり、本因坊秀哉名人引退後は、九段と名人の地位は別のものと定められた。
- 囲碁の棋戦の一つである名人戦に優勝した棋士に贈られるタイトル。
目次 |
[編集] 名人戦
1962年に創設されて1975年まで読売新聞社主催で開催、1976年から朝日新聞社主催で開催。読売新聞時代の名人戦は「旧名人戦」と呼んで区別されている。現行名人戦はこの時から新たに「第1期」からカウントしているが、旧名人戦最後のタイトル者大竹英雄は移行時にもその地位は持ち越され、現行名人戦の第1期に挑戦者を迎えることとなった。名人戦の朝日移管後は、読売は棋聖戦を主催する。
女流棋戦にも女流名人戦があり、また、韓国、中国、台湾にも同名の棋戦がある。
[編集] 仕組み
9人が参加するリーグ戦を行い、一位になった者がタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。優勝賞金は3700万円。七番勝負は例年9月から11月にかけて、持ち時間8時間・2日制で、全国の高級ホテル・旅館を舞台として開催される。
リーグは予選トーナメント勝ち抜き者3名、前期からの残留者5名、七番勝負敗者1名から成る。名人リーグは棋聖・本因坊リーグと並んで「黄金の椅子」とも呼ばれ、この3大リーグに参加することが一流棋士の証とされている。
名人戦を五連覇、または通算十期以上獲得した棋士は、60歳以降に名誉名人を名乗る権利を得る。現在、名誉名人の資格を持つのは趙治勲・小林光一の2人。
[編集] 新旧名人戦の歴史
[編集] 創設の経緯
本因坊秀哉名人引退後、本因坊の名跡は本因坊戦に継承されていたが、名人の地位については決まりがついていないままであり、大手合による九段昇段者が出たことでもその意味を明確化する必要性があった。将棋界では名人戦 (将棋)が創設されて人気を博しており、当然囲碁においても同様の形式が期待されてもいた。これは坂口安吾「碁にも名人戦つくれ」(1949年毎日新聞大阪版)にも現われている。日本棋院では1949年の「日本棋院囲碁規約」に「名人規定」を盛り込んだが、具体的な棋戦などは定めず、実際に当時の第一人者と目される読売新聞嘱託の呉清源を加えた棋戦の実現は難しい状況でもあった。
1951年に朝日新聞が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。1952年に朝日は大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が三好英之理事長と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また関西棋院も不参加を表明。朝日はこれを断念し、さらに朝日、毎日、読売の三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないなどを申し合わせた。朝日はこの代わりとして1953年から最高位戦を開始、また読売新聞は1956年に「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始する。
その後日本棋院では、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった。1960年に渉外担当理事となった藤沢秀行は、この解決策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院、呉清源も参加する名人戦が創設される。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。
[編集] 第1期名人戦リーグ
名人戦スタート当初には「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定することとなった。リーグ終盤には呉・坂田栄男・藤沢秀行の三者によるトップ争いとなったが、藤沢は最終局に敗れて9勝3敗でリーグ戦を終了。しかし藤沢が「プレーオフに向けて英気を養うため」酒を飲みに行っている間に、坂田-呉戦は終盤呉の猛追によりジゴでの終局となった。規定でジゴは白勝ちとしていたが、通常の勝ちより劣ると決められていたため、呉と同率でありながら「半星」上回って藤沢が初代名人に輝いた。藤沢は渉外担当として名人戦設立に当たり、自ら名人位を手中にするというドラマチックな幕切れであった。
[編集] 覇者交替のドラマ
第2期名人戦では、坂田栄男本因坊が藤沢秀行を破り、名人本因坊の称号を手にする。この時最終第7局での120手目のノゾキは「天来の妙手」と呼ばれ、名人位の行方を決定づけた一着として有名である。坂田は第3期も防衛の後、1965年第4期には23歳の林海峰八段が挑戦者となる。予想は当時全盛の坂田が圧倒的に有利であり、坂田は七番勝負1局目に勝った後、「20代の名人などありえない」との発言も出た。しかし林はその後盛り返して4勝2敗で名人位となり、一大センセーションとなった。林は1968年に本因坊位も奪って名人本因坊となり、坂田時代の終焉とした。
続く1968年の名人戦では53歳の高川格が林から名人を奪い「不死鳥」と呼ばれる。1973年には石田芳夫本因坊が林に挑戦するが、林は3連敗後4連勝という逆転勝ちで防衛、しかし翌年は石田の再挑戦に敗れ、石田が名人本因坊となる。旧名人戦最後の第14期には石田の兄弟子・大竹英雄が挑戦者として登場、タイトルを奪取した。
[編集] 移管
名人戦の契約金は、高度成長期にあって1970年まで変わらず、74年でも2750万円に留まっていた。日本棋院はこの状況を打破するため、1974年12月3日に読売新聞に対して名人戦契約を第14期で打ち切ると通告、次いで12月12日に朝日新聞と1億円の契約金で第15期以降の仮契約を交わす。
これに対し読売新聞は、朝日以上の契約金で日本棋院に再交渉する。日本棋院では当初は朝日移管に対して棋士180人中反対者2人のみだったが、読売支持も増え始めて混乱し、理事会は総辞職する。しかし選挙による新理事選出では朝日派8人、読売派3人となった。読売は1975年7月26日に名人戦の契約を求める仮処分を申請、8月21日に本訴訟を起こす。また読売及び、朝日を除く各マスコミでは、日本棋院を批判する論調であった。しかし裁判は日本棋院有利に進み、12月10に日本棋院顧問岡田儀一による斡旋案「名人戦は朝日と契約」「読売は序列第一位の新棋戦、最高棋士決定戦・棋聖戦を新たに契約」(岡田私案)により、読売と日本棋院は和解することとなった。この一連の経緯は「名人戦騒動」と呼ばれている。
[編集] 歴代名人
[編集] 江戸時代
[編集] 明治以降
[編集] 旧名人戦優勝者
[編集] 名人戦優勝者
- 大竹英雄
- 林海峰
- 大竹英雄
- 大竹英雄
- 趙治勲
- 趙治勲
- 趙治勲
- 趙治勲
- 趙治勲
- 小林光一
- 加藤正夫
- 加藤正夫
- 小林光一
- 小林光一
- 小林光一
- 小林光一
- 小林光一
- 小林光一
- 小林光一
- 武宮正樹
- 趙治勲
- 趙治勲
- 趙治勲
- 趙治勲
- 依田紀基
- 依田紀基
- 依田紀基
- 依田紀基
- 張栩
- 張栩
- 高尾紳路
- 張栩
[編集] 名人戦の記録、エピソード
- 最多防衛記録は小林光一の7連覇。
- 通算最多在位は趙治勲の9期、次いで林海峰、小林光一の8期。
- 名人リーグ最長在籍は林海峰の35期連続、通算39期(名人在位8期を含む)。