増川宏一
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増川 宏一(ますかわ こういち、1930年(昭和5年) - )は、日本の盤上遊戯(ボードゲーム)研究家。遊戯史学会会長、大英博物館リーディングルームのメンバー、将棋博物館(現在は閉館)顧問などを務めた。
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[編集] 経歴
長崎県生まれ。旧制甲南高等学校(現在の甲南大学の前身)を卒業。
増川が盤上遊戯の研究を始めたきっかけは旧制中学時代にさかのぼる[1]。中学で先輩に呼び出され、「我が校の本分は遊ぶことである」といわれたことで、遊びを研究することを意識するようになったという。
30歳のときに勤務先を退社、将棋・囲碁・賭博ものなどの盤上遊戯史の研究に専念する。チェス史の研究で日本国外の研究者とも交流を深め、1973年にはベルリンのペルガモン博物館の研究所に招待された[2]。
大学などの組織に所属しない在野の研究者であるが、将棋の歴史研究については第一人者で、著書も数多い。その功績をたたえ、2004年度の将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞した。
従来は単発的な史書研究にとどまることの多かったこれらの分野を、歴史体系として捉えようと試みた功績は大きい。
[編集] おもな業績
[編集] 大橋家文書
増川の功績で特徴的なものは、江戸時代に将棋の名人家であった大橋家に残されていた文書(大橋家文書)を解読し、これまでの定説を覆したことである。
従来、「将棋所」は江戸幕府に認められた公式な役職であり、名人家は幕府の庇護のもとで身分を認められてきたと考えられていた。しかし増川の研究によると、「将棋所」は名人家が勝手に名乗っていた称号であり、幕府への提出書類で「将棋所」と名乗ったところ、公式な役職ではないと差し戻されたこともわかっている。また、幕府から名人家に与えられた扶持はわずかなもので、扶持と将棋関連の仕事だけでは生活していくことができず、現在でいう不動産賃貸などの副業で糧を得ていたことも、大橋家文書から明らかになった。
[編集] 将棋の南方伝来ルート
また増川は、将棋の伝来ルートについて、従来の定説であった中国大陸経由の伝来を否定し、東南アジア経由での伝来説を提唱した。
インドで生まれたチャトランガが将棋の原型であることは定説となっているが、将棋がいつ、どこから日本に伝来したのかについては、残されている資料も少なく、はっきりしたことはわかっていない。
現存する最古の資料としては11世紀中頃の興福寺境内跡からの出土駒などがあるが、増川はこれらにごく近い時期、10世紀後半から11世紀の初期にかけて、海のシルクロード沿いに東南アジアを経由して、将棋が日本に伝来したという説を立てている。
北宋時代の中国の遺跡からシャンチーの駒が見つかっており、日本に将棋が伝来した時点ではすでにシャンチーが成立していたこと、そしてシャンチーと将棋ではルールに大きな差異があることから、中国大陸からの伝来説は根拠が薄いと否定している。そして、将棋と似たルールのボードゲームとしてタイの将棋であるマークルックをあげ、マークルックが海岸沿いに日本に伝来して変化したものが将棋となった、としている。
[編集] 将棋の日本伝来年代についての対立
前述したように、増川は将棋の伝来を10~11世紀とした。これに対し、将棋棋士の木村義徳などは、増川の説よりもずっと早い、6世紀には中国大陸経由で日本に将棋が到達していたと主張し、インドを中心にヨーロッパから日本までほぼ同じ形の将棋の原型(木村は「世界チェス」と呼んでいる)が広まっていったと考えている。
増川はこの6世紀説に対し、著書『将棋の駒はなぜ40枚か』(ISBN 4-08-720019-1) 『ものと人間の文化史 チェス』(ISBN 4-588-21101-3)などで痛烈に批判している。いわく、6世紀説は出土品や史料の記述といった証拠が全くなく、推測の域を出ない説である、また古い史料に記述がないのはその時点で将棋が伝わっていなかったからであるとしている。その他6世紀説に対して複数の矛盾を指摘している。
木村も著書『持駒使用の謎』(ISBN 4-8197-0067-7) で、増川の批判に対し再反論を行っており、論争の行方には決着はついていない。
なお、この間の批判の中で、曲解に基づく行きすぎた記述があり木村の名誉を傷つけたとして、「将棋世界」2006年9月号にて増川の個人名で木村に対する謝罪広告が出されている。
[編集] 世界における将棋の起源
前述の通り、世界における将棋の起源は、インドに伝わるチャトランガであるとされているが、4人制と2人制のどちらが先に発生したか、20世紀を通じて論争となっていた。
1970年代には、増川は4人制起源説を主張していた(1977年『ものと人間の文化史 将棋』)が、その後の研究により4人制起源説に疑問が持たれ始め、2000年代には2人制起源説に傾き(2003年『ものと人間の文化史 チェス』)。2006年には自説を改めて2人制が起源であると断定した[3]。
[編集] 著書
- 法政大学出版局「ものと人間の文化史」
- 23『将棋』1977/11、ISBN 4-588-20231-6
- 23-2『将棋2』1985/11、ISBN 4-588-20232-4
- 29『盤上遊戯』1978/1、ISBN 4-588-20291-X
- 40『賭博』1980/6、ISBN 4-588-20401-7
- 40-2『賭博2』1982/6、ISBN 4-588-20402-5
- 40-3『賭博3』1983/10、ISBN 4-588-20403-3
- 59『碁』1987/12、ISBN 4-588-20591-9
- 70『さいころ』1992/7、ISBN 4-588-20701-6
- 79『すごろく』1995/7、ISBN 4-588-20791-1
- 79-2『すごろく2』1995/7、ISBN 4-588-20792-X
- 94『合せもの』2000/3、ISBN 4-588-20941-8
- 110『チェス』2003/1、ISBN 4-588-21101-3
- 134『遊戯』2006/4、ISBN 4-588-21341-5[4]
- 『将棋の駒はなぜ40枚か』集英社新書、2000年、ISBN 4-08-720019-1
- 『将棋の起源』平凡社ライブラリー、1996年、ISBN 4-582-76172-0
- 『碁打ち・将棋指しの誕生』平凡社ライブラリー、1995年、ISBN 4-582-76119-4
- 『碁打ち・将棋指しの江戸』平凡社選書、1998年、ISBN 4-582-84180-5
- 『将軍家「将棋指南役」』洋泉社新書y、2005年、ISBN 4-89691-891-6
他多数
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 東京新聞 土曜訪問 2005年4月23日、読売新聞「生老病死の旅路」2007年1月23日
- ^ 読売新聞「生老病死の旅路」2007年1月23日
- ^ 2006年12月の遊戯史学会での講演で発表した。読売新聞「なるほど囲碁・将棋」2007年1月15日にも掲載されている。
- ^ 「遊戯」 増川 宏一さん : 著者来店 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)