根性論
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根性論(こんじょうろん)とは、苦難に屈しない精神=根性があれば、如何なる問題も解決できる・または如何なる目標にも到達できるとする精神論の一つ。
近年では、人間の限界を引き上げるものとする考え方の一方、逆に軍国主義の精神論に近い人間の尊厳を軽んじる思想として厳しく批判されるなど、その賛否は大きく分かれる。
なお「根性」とは、本来は仏教用語の機根に由来する言葉である。現在の根性は「その人間が持って生まれた性質」というような意味合いであるが、本来の意味は、衆生が仏の教えを受け入れられる能力や器の浅深のことである。これが現在のような意味合いに変化(誤用)されるようになったのは、東京オリンピック(1964年)の女子バレーボール日本代表チーム(いわゆる『東洋の魔女』)に特訓を課し、金メダルに導いた指導者大松博文の発言がきっかけと言われている。
[編集] 概要
根性論は古くより、スポーツの選手や挫折した人を激励する場面で用いられてきた。
苦労に挫折せず更なる向上を目指した結果、今まで持てなかった物が持てるようになったり、分からなかった問題が分かるようになったり、速く息切れせずに走れるようになったりする。そしてそのような利益を得るためには、努力するしかない。努力を続けるために必要なのは根性であり、何事にもめげない精神力こそが必ず人を成功へと導く、という思考法である。
こうした考え方は必ずしも全面的に否定される物ではない。何事にもよらずメンタルな面が結果を左右する部分はあり、スポーツを例に挙げれば、試合において「根性」「絶対に勝つんだという気持ち」など精神的な要素が勝敗に影響する事や、正しいトレーニングをする上でのモチベーション維持として用い、健康を害することなく技術や体力の向上に繋がるといったこともしばしば観察される。
その逆に、誤った方向での努力も見られる。「炎天下で水を飲まずに練習を続けて熱射病で倒れる。」「関節や筋を傷めていたり、風邪を引いたりしているのに寒い屋外で練習を続行して、体調を余計に悪くする」といったケースがそれである。
また、根性論の中には旧時代的、あるいは軍隊的な発想や思考が根拠になっているものが少なくない。顕著な一例として、「スポーツ時は水分を摂ってはいけない」という考えが1980年代頃まで学校教育運動(体育・部活動など)で一大常識となっていた事が挙げられる。これは第二次大戦中における、
- 「東南アジアで日本軍が長距離行軍時に、喉の渇きに耐えられず、何が入っているかわからない井戸水を飲んで、腹を壊した」
- 「長距離行軍に際し後先を考えず水筒の水を飲み干してしまい、後半以降脱水症状に陥り倒れた」
- 「運動時に水を飲むと早く疲れる(と、当時言われていた)」
などのエピソードが由来であるが、戦場ならばともかく、平時のスポーツでは意味の無い注意であり、およそ合理性が欠落した指導といえる。運動中は水分摂取が必要であるとする医学的見解が長らく示されなかったことがこうした指導を続けさせた最大要因であるが、苦痛に耐えることが進歩をもたらす、といった極端な信念も要因の一つと言えるであろう。
「途中で投げ出さず最後までやり遂げる」、「途中でやめるのは格好が悪い」(オリンピックなどの国際大会であれば「途中棄権は国の体面を汚す」)との根性論から中途での断念を不名誉なものとし、マラソン大会で意識朦朧でありながらゴールを目指すランナーが見られたり、さらには、クラブ活動でいじめに遭ったり顧問からセクハラや体罰に遭っても、上記の理由から途中でやめる事もできず、最悪の場合自殺に至る場合がある。
当人が根性論を重んじ、この信念に基づいた行動を自ら取る限りは、どのような結果が出ようとも当人の自由であり自己責任ともいえる。だが、学校教育活動の場などで、責任者がこのような誤った危険なトレーニング法を根性論を振りかざして強行していた場合は責任問題となる。 1960年代から1980年代に掛けては、医学的知識も根拠も無く、加虐行為を繰り返す監督責任者によってしばしば健康被害を訴える人が続出し、管理責任を問う裁判が起こされるなどの社会問題も発生していた。