松川の戦い
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松川の戦い(福島表の合戦)(まつかわのたたかい・ふくしまおもてのがっせん)は慶長5年(1600年)10月6日に現在の福島県福島市の中心部で伊達政宗と上杉景勝麾下の本庄繁長・須田長義が戦った合戦。
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[編集] 概要
関ヶ原合戦と前後して全国各地で起きた徳川家康方(東軍)と石田三成方(西軍)の戦いの一つ。この戦いを上杉家は「松川の戦い」「松川合戦」、伊達家は「福島表の合戦」「宮代表の合戦」「(上杉の)瀬上(せのうえ)崩れ」等と呼称した。なお「奥州関ヶ原の合戦」は直江兼続と最上義光・伊達連合軍の慶長出羽合戦を指し、この戦いとは無関係である。松川は現在の福島市を流れる河川が由来であり、福島市南部の松川地区のことではない。
[編集] 合戦前夜
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、翌年3月の前田利家の死去、石田三成の失脚を経て、徳川家康の権力がますます増大した。慶長4年8月、上杉景勝は所領の会津若松城へ帰城した。景勝は前年初めに秀吉の命により越後国春日山城から会津領120万石へ国替えになったばかりであり、領内統治をほとんど施していない状況であった。景勝は早速、領内の道路の開削・整備や支城の普請等など領内の整備をおこなった。また、居城を新たに新築して会津若松城から遷すことを考え、若松城から北西3kmのあたりに築城を開始した(神指城)。
隣国越後の堀秀治は、このような上杉領内の動きを逐一徳川家康へ報告した。その内容は上杉氏が隣国の堀秀治や最上義光の領内を攻めることを目的に道路や支城の整備・居城の築城をおこなっているという旨のものであった。また、景勝家臣・藤田信吉が江戸城へ出奔し、徳川秀忠に上杉方の内情を話した。家康は景勝に上洛して弁明するよう求めた。しかし、景勝はその申し出を拒絶し、そのため家康は景勝を謀反人とみなして諸大名に上杉氏征討を命じた。慶長5年(1600年)6月6日、大坂城西出丸において軍議が招集され、家康・徳川秀忠が白河口、佐竹義宣が仙道口、伊達政宗が白石口、前田利長・堀秀治が越後口と布陣が決定した。家康は6月18日に伏見城を出発し、江戸城を経て7月下旬に下野国小山へ着陣。一方、白石口を担当することになった伊達政宗は急ぎ京都を発ち、相馬領を経由して帰国し、7月12日に名取郡北目城へ入り、ここを上杉攻めの拠点とした。
しかし、上方で石田三成が家康打倒の挙兵をしたことを知った家康は、白河口を次男・結城秀康へ任せ、自らは江戸城に引き返した。これを知った景勝は家康追撃をおこなわずに会津若松城へ引き上げた。そして、上杉氏との同盟を破棄して家康方に付くことを鮮明にした最上義光の山形城を家臣・直江兼続に攻め入らせた。直江軍は怒濤ごとく山形城を進撃し、ついには山形城の前衛基地・長谷堂城を取り囲むにいたった(長谷堂城の戦い)。一方、政宗は7月24日刈田郡に進撃し、白石城を落としていたが、最上の支援要請を受けて伊達政景を名代とする援軍(これは少勢だったと云われる)を山形に派遣した。このような状況の中、9月15日の関ヶ原の戦いにおいて徳川方(東軍)が勝利した旨の報告が各陣営に届く。最上方の堅い守備に手間取っていた直江兼続は、ついに長谷堂城の囲いを解いて自領への撤退を開始したのである。
[編集] 合戦の経過
伊達政宗は東軍勝利の知らせを聞くと、10月5日、好機到来とばかりに約2万の兵を率いて北目城から伊達郡・信夫郡へ出陣した。6日朝、伊達政宗は国見山に本陣を置いた。一方の上杉軍は福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義を中心に約6千の兵のみであった。伊達軍は圧倒的な兵をもって信達盆地(福島盆地)へ攻め入り、本庄繁長軍と戦った。伊達軍は本庄軍を終始圧倒し、瀬上(せのうえ)町へ追い込んだ上、宮代(福島市宮代)で上杉勢物頭の桑折図書ら多数を討ち取った。松川付近では、岡左内、齋道二(註1)等と屋代景頼、茂庭綱元の部隊が激突したが、安田勘助、北川伝右衛門など、上杉方の名のある武者が軒並み討ち死にした。上杉の敗兵は羽黒山と福島城へ四散した。伊達勢は庭坂、大森周辺へも進出し、米沢と福島間を完全に封鎖した。
- 「景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」(慶長五年庚子十月六日宮代表御合戦伊達政宗最上陣覚書)
- 「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他二三人討捕、験越候、満足ニ候、今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」(十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状)
- 註1:「齋道二、岡左内モ、松川ニ於テ小返ス。永井・青木ハ黒母衣ヲ掛ケ、十文字ノ鑓ヲ持タリ。道二ハ金ノ簾ノ指物ヲ指テ、殿後ス。勘解由兵衛家士荘子隼人ト太刀打シテ、引退ク。此時隼人、熊毛ノ羽織ヲ着セリ。道二見テ、公(政宗)ノ朝鮮御陣ニ、熊ノ御羽織ヲ着玉フ由ヲ聞及ヒ、政宗ト太刀打シタルトテ、荒言(偽リ言)スト云ヘリ。岡左内モ、公(政宗)ト太刀打シタルト云ウ説アリ。偽リナリ」『伊達治家記録』)
伊達政宗は福島城の目と鼻の先である羽黒山(信夫山)の麓黒沼神社に本陣を置き、首級実検を行った(首級三百余、武頭五人、他馬上百騎討ち取り))(註2)。福島城城主本庄繁長は、野戦の不利を悟り、宮代で敗れた軍勢を撤収し、籠城策をとったが、一時は伊達軍の中に全軍で突入し、切り死にを遂げようと覚悟する状況に迄追い込まれた(御本陣ヘ突懸リ討死スベシト議定シ)(註3)。一方福島城の防備は堅く、伊達軍にも死傷者が続出した。この戦いで片倉景綱の家臣国分外記らが討ち死にし、攻城の長期化が懸念されたため、政宗は攻撃を中止し、国見山へ帰陣した。本庄は福島城城兵に敢えて追撃を命じなかった。伊達軍が国見山へ移動中、上杉方梁川城の須田長義が車丹波等と共に援軍として駆けつけ、伊達勢後尾の小荷駄隊を急襲。小荷駄奉行の宮崎内蔵助と人足等多数を討ち取った(この際に須田の部隊は伊達家の「竹に雀」の定紋の帷幕を奪い、永く上杉家の誇りとしたと云うがこれは軍記の創作で、そもそも「竹に雀」は上杉家の紋である)(註4・5)。兵糧が心配されたが、伊達軍は国見山への撤退に成功した。
- 註2:「敵兵悉ク福嶋ヘ逃入ノ後、公、羽黒山ノ麓、黒沼神社ノ邊ニ御本陣ヲ備エラレ、首級ヲ実検シ玉フ。濱尾漸齋御側ニ同候シ、披露ス」『伊達治家記録』)
- 註3:「今日本荘出羽、公押付ケ攻入玉フヘシ、御本陣へ突懸リ討死スヘシト議定シ、内冑ニ伽羅ヲ焼留メ、且ツ手廻リノ人数ニモ高名ノ心懸ヲ止テ、只鎗ノ柄ヲ短く切詰メ、眞丸ニ成テ突懸ルへシト下知シ、御人数ノ攻入ヲ待ツ處ニ、諸手ヨリツルヘ鉄砲ヲ懸ルヲ聞テ、扨ハ御人数ヲ引揚ラルト見エタリ、城中ヨリ打出ハ、附入ニ城ヲ乗取リ玉フヘキ手術ナルヘシ、必ス働キ出ル事ナカレト総人数ニ不知スト云フ」(『伊達治家記録』敵軍始末ノ義雑賀小平太壽悦説ニ據テ記ス)
- 註4:「慶長六年伊達政宗出軍於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品、武誉尤抜等倫」(『梁川城代須田系譜』)
- 註5:「或説ニ、此時、公ノ御陣幕ヲ奪取ラルト云フ。又亘理右近殿定宗荷物ノ内ニ、竹ニ雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取ラルトモ云ヘリ。両説不決」(『伊達治家記録』)
6日夜、伊達の国見山本陣に、上杉景勝家臣藤田能登家士斉藤兵部が、伊達・信夫の百姓等4千人を伴い内通してきた他、直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠が伊達成実に協力を申し出てきた。 福島城への再攻撃が検討されたが、上杉軍による仙道・梁川筋からの挟撃の懸念を石川昭光が言上し、また梁川城への謀略工作が不調に終わったため、政宗は再征を断念した。翌7日伊達軍は国見山に津田景康の部隊を残して陣払いし、北目城へ帰城した。
9日、政宗は、桑折宗長、大条宗直等に以下の書状を与えた。
- 「今度之動、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ條條、 能候ト存候」
10月24日、徳川家康は、伊達政宗に対して、この福島表における戦功を賞した。
- 「至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候 十月廿四日 大崎少将殿 家康」(十月二十四日政宗宛徳川家康書状)
- 「無比類御手柄、被入精之段祝着之旨、…来春者早速、景勝成敗可被申付候、…御分別御尤之由候 十月廿四日 大崎少将様 貴報 井伊兵部少輔直政」(十月二十四日政宗宛井伊直政書状)
[編集] 戦後
関ヶ原直後、家康は伊達政宗とともに翌慶長6年早々に上杉家を武力征伐する予定でいたが(政宗は慶長6年2月17日に「家臣等軍役ノ人数改メ」を命じて出陣の準備をした)、上杉家が本多正信や結城秀康等を通じて降伏を願い出たため、結果的に上杉征伐は中止された。この間、伊達家と上杉家は大規模な軍事衝突こそ起こらなかったものの、国境付近での小競り合いと緊張関係は依然続いた。慶長6年3月20日、上杉家の様子を探っていた政宗は伊達政景宛への書状で、家康との講和に傾いた上杉家が戦意を失い、籠城の用意のみで仙道口へ兵を出す状況にはない旨を知らせた(「会津ノ唱モ能々承候、籠城之用意迄ニ而、中々仙道口ナトヘ人衆可被出武體無之由申候、縦景勝被打出候共、サヨウノ時者、又當手ノ備、日之内ニモ其構可仕候條、不苦候」)。5月8日、政宗は、景勝領の置賜郡長井荘板屋へ侵入した石川義宗が、悉く焼打を行ったことを伏見の家康に注進した。
慶長6年7月、景勝と兼続は京都伏見に上洛し、8月に家康に謁見した。会津領は没収され、置賜郡(長井郡)と伊達郡、信夫郡の30万石に減封された。一方、政宗は和賀忠親の南部一揆への煽動関与の件により、念願だった先祖伝来の地の奪還は叶わず、戦後の論功行賞でも自力で占領した刈田郡2万石のみの加増に終わった。
[編集] 古戦場の現在
[編集] 松川と福島城
合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長の居城・福島城は福島県庁となっている。
[編集] 梁川城
梁川城は江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は梁川小学校、梁川幼稚園、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗改易後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。梁川中心市街(梁川城下)から国道349号線を1.5kmほど北上して阿武隈川を越えると、左手に、当時、梁川城に対峙して伊達軍が布陣したという小山…大枝城跡がある。梁川城も小高い平山城であり、梁川城と大枝城からは、阿武隈川を挟んで相互に相手方がよく見える。
[編集] 国見
伊達軍が布陣した国見の厚樫山(あつかしやま)の山麓も国指定史跡に指定されているが、源頼朝の奥州藤原氏征伐の史跡としてであり、伊達政宗の福島侵攻の本陣が置かれたことはそれほど知られていない。厚樫山の山頂には、現在展望台があり、国見という地名のとおり、福島盆地…特に伊達郡の梁川、保原方面を一望することができる。