屋代景頼
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屋代景頼(やしろかげより、永禄6年(1563年) - 慶長13年(1608年))は伊達氏の家臣。勘解由兵衛。
兄がいたが、他家に養子として出されたため、14歳で家督を継ぎ、伊達政宗に仕えるようになった。1589年、5000石を領し、翌年には若くして奉行に任じられ、文禄の役で政宗が朝鮮に出兵しているときは、伊達氏の居城である岩出山城の留守居を任されるほど、政宗の信任は厚かったという。
しかし、葛西氏の旧臣を粛清したり、伊達成実が恩賞の不満から高野山に出奔したとき、成実の妻子一族を皆殺しとするなど、(この妻子殺しは、成実の妻子が当時そもそも存在しなかった等の異説もあり。)次第に傲慢で許しがたい行為が目立つようになり、1607年に政宗より罪を問われて改易されて追放された。そして近江を流浪し、そこで1608年に病死した。 伊達家の旧領であった現在の山形県東置賜郡高畠町に屋代と言う地名が残っている。