桑折宗長
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文元年(1532年) | |||
死没 | 慶長6年(1601年)7月 | |||
別名 | 点了斎不曲(法号) | |||
官位 | 治部大輔。播磨守 | |||
主君 | 伊達輝宗→政宗 | |||
氏族 | 桑折氏 | |||
父母 | 父:桑折貞長 | |||
子 | 桑折政長、原田宗資、娘(石母田景頼室) |
桑折 宗長(こおり むねなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。伊達氏の家臣。
天文元年(1532年)、伊達氏の家臣・桑折貞長の長男として生まれる。貞長は伊達家の重臣の中でも最有力であり、そのため伊達稙宗の6男を養子としてもらい受けていた。このため、宗長は長男ながら幼少時に出家して相模国藤沢の遊行寺に預けられ、覚阿弥と称した。
しかしその養子が早世したため、父の命令で呼び戻されて還俗し、家督を継いで伊達輝宗に仕えた。輝宗隠居後は伊達政宗に仕え、輝宗・政宗時代の伊達家のほとんどの合戦に参加した。しかし老齢のため、家督を子の桑折政長に譲って隠居する。しかし隠居後も評定衆として政宗の補佐を務めた。後に剃髪して点了斎不曲と号している。
しかし後継者の政長が文禄2年(1593年)に李氏朝鮮で陣没する。政長には継嗣が無かったため、宗長の娘婿(一説に政長の娘婿)である石母田景頼の長男・桑折重長が跡を継ぎ、重長が早世すると4男の桑折宗頼が跡を継いで、景頼も桑折姓を称して後見を務めた。
慶長6年(1601年)7月に死去。享年70。