東京大学運動会ア式蹴球部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京大学運動会ア式蹴球部 | |
原語表記 | 東京大学ア式蹴球部 |
---|---|
愛称 | |
クラブカラー | ライトブルー |
創設年 | 1918年 |
所属リーグ | 東京都大学サッカー連盟 |
所属ディビジョン | 2部 |
ホームタウン | 東京都文京区 |
ホームスタジアム | 御殿下グラウンド |
収容人数 | |
代表者 | 影本浩(部長) |
監督 | 薮内俊和 |
東京大学運動会ア式蹴球部(とうきょうだいがくうんどうかいあしきしゅうきゅうぶ、Tokyo University Association Football Club)は、東京大学のサッカー部である。 東大サッカー部と通称される。
「ア式蹴球」とはアソシエーション式フットボールの略で、サッカーの事である。
[編集] 歴史
日本で最初にサッカーを受容したのは東京高等師範学校である。その後、他の東京や関西の師範学校でも、東京高師に習ってサッカーの受容が行われた。これら師範学校の卒業生は、卒業後教員として各地に散らばりそこでサッカーの普及を行った。特に広島県の中等学校はサッカーの受容に積極的であり、早くも1900年代の初めには県内各地の中等学校でサッカーが活発に行われていた。
こうした環境の中で育ったのが広島一中→一高→東京帝大と進んだ野津謙である。1918年に野津は一高から東京帝大に進学するが、彼はそこでサッカー部を創設した。これが東京帝国大学ア式蹴球部である。(以下帝大とする)。当初の帝大ア式蹴球部は、野津のためのサッカー部という色彩が強かった。野津は1921年に極東選手権競技大会のサッカー代表に選抜される。この後、野津は関東の大学チームで互いに切磋琢磨しレベルアップを図るべきであると考えるに至り、1922年に早稲田、東京高師、東京商科大と共に日本最初のサッカーリーグとなる「専門学校蹴球リーグ戦」を開始させた。
「専門学校蹴球リーグ戦」は翌年には中止されるが、野津はその再開に奔走した。その努力の甲斐があって1925年からリーグの運営を体系立てた上で、「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」として再開される事となった。これが現在の「関東大学リーグ」の大本となった大会である。第1回大会では早稲田の後塵を拝して2位となったが、その後1926年から1931年まで帝大が「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」6連覇を飾る。又1925年の第5回ア式蹴球全国優勝大会では帝大が大学チームとしては初めて全国大会の決勝戦まで進出した。
また野津は1923年から旧制高等学校によるサッカーの全国大会「全国高等学校ア式蹴球大会」もスタートさせている。
1936年のベルリンオリンピックに際しては、選手として種田孝一、竹内悌三、高橋豊二を、コーチとして竹腰重丸を派遣している。
1949年の学制改正に伴い、大学の名称が変更され東京大学ア式蹴球部となる。
戦後は1953年の国際学生スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)ドルトムント大会に際して選手として岡野俊一郎、監督として竹腰を派遣したが、戦前の栄光は東大ア式蹴球部に戻ってこなかった。
日本サッカー界における大学勢と、実業団の逆転は1960年の天皇杯における古河電工の優勝が一つの転機であるが、東大の斜陽はこれよりも早く訪れた。1956年の入れ替え戦で東大は法政大学に1-2で敗れ初めて2部に陥落した。更に1977年には入替戦で立正大学に1-2で敗れ、初めて東京都大学リーグ1部に陥落した。以降東大ア式蹴球部は東京都大学リーグのカテゴリを往来する日々が続いている。
日本サッカー協会には、野津と岡野2人の協会会長を輩出している。又、竹腰と岡野は日本代表の監督を務めている。日本サッカーにおける学閥としての力関係で言うと、斜陽が早稲田、慶應と比べても余りにも早すぎたため、早稲田の後塵を拝することが多い慶應の、その更に後塵を拝している。但し日本サッカー協会会長を務めた人物の中で長沼健は関西学院大学、川淵三郎は早稲田出身で、その他の会長についてはサッカー選手としてのキャリアを持っていない。このためわずか2名であるが東大ア式蹴球部出身の会長が最も多い事になる。
[編集] タイトル
- 天皇杯
- 1925年:準優勝(大学勢としては初めての決勝戦進出)
- 1946年、1949年にはOBチームの東大LB(ライトブルー)が優勝