杉内雅男
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杉内 雅男(すぎうち まさお、大正9年(1920年)10月20日 - )は、囲碁棋士。宮崎県出身、日本棋院所属、井上一郎五段門下。囲碁選手権戦優勝、本因坊戦挑戦者2回など。厳しい狙いを持つ力戦派で、囲碁に対する真摯な姿勢から「囲碁の神様」の異名をとる。夫人は杉内寿子八段。
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[編集] 経歴
宮崎県都城に6人兄弟の次男として生まれる。小学4、5年頃に父や叔父の見よう見まねで囲碁を覚え、地元の囲碁大会で準優勝して神童と言われる。1933年の小学校卒業後、瀬越憲作に入門を依頼し、門下の井上一郎四段(当時)に内弟子として入門、日本棋院院生となる。1937年に入段。この頃、研究機関「青年研究会」に参加。1941年に教育召集で秋期大手合を休場。
1944年1月に徴兵により北支に出征し、1946年12月に復員。青年棋士の研究機関「敲玉会」「黎明会」に参加。1947年、「囲碁研究」誌の若手トーナメントに優勝。1949年に呉清源・新鋭挑戦碁の三番碁に出場し、先二先の手合ながら黒番4目勝ちを収める。1950年の日本棋院と関西棋院による東西対抗戦では、鯛中新六段に敗れる。この頃の囲碁一筋の生活から「囲碁の神様」の渾名がついた。
1953年から院生師範を務める。1954年に、敲玉会のメンバーだった女流棋士の本田寿子五段(当時)と結婚、戦後初の棋士同士の夫婦となり、夫婦合わせて十二段とも言われた。同年七段時に本因坊戦リーグで優勝して高川秀格本因坊への挑戦者となり、下馬評では前田陳爾による「いわゆる力というものは杉内さんの方が強い」など五分五分と言われたが2勝4敗で敗れる。高川は後に、この時が本因坊9連覇中の最大の危機と述べた。
1955年、呉清源との呉対新鋭八段戦の三番勝負を打ち、1勝2敗となった。同年、第1期最高位戦リーグで、6勝2敗で坂田栄男と同率となるが、前年度順位により坂田が最高位となる。1959年の最高位戦リーグで九段に昇段。
1958年の本因坊戦リーグでは、木谷実、坂田栄男、杉内の3人が5勝2敗となり、同率決戦のトーナメントのくじ引きで不戦勝を引き当て、木谷に勝った坂田を破って挑戦者となった。高川秀格との挑戦手合も予想は五分五分と言われたが、再度2勝4敗で敗れる。1959年の早碁名人戦で宮下秀洋九段に挑戦して2勝1敗で勝ち、初タイトル。関西棋院早碁名人戦優勝者の鯛中新九段との電報碁にも勝つ。翌年は藤沢朋斎九段に1勝2敗で敗れる。
1963年に囲碁選手権戦の決勝三番勝負で、院生師範時代の教え子である当時20歳の林海峰七段を2勝1敗で破って優勝。
2004年、公式戦通算800勝を史上最年長(84歳)で達成。2006年4月までの通算成績は、810勝573敗12ジゴ1無勝負で、勝率5割9分3厘。
[編集] タイトル歴
- 早碁名人戦 1959年
- 囲碁選手権 1963年
[編集] その他の棋歴
- 本因坊戦 挑戦者 1954年、1958年
- 日本棋院選手権 挑戦者 1955年、1956年
- 最高位決定戦 準優勝 1955年
- 天元戦 準優勝 1976年
- NHK杯 準優勝 1982年
- 名人戦リーグ5期、本因坊戦リーグ7期
[編集] 功績
1972年から78年まで日本棋院常務理事を務める。特に1974年から75年の名人戦騒動では渉外理事として、名人戦の読売新聞から朝日新聞への移管と、読売新聞での棋聖戦創設を主導した。1978年から84年まで副理事長、84年から86年には政務理事、1980年には大手合改正委員会委員長を務める。2004年、大倉喜七郎賞受賞。