木戸修
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木戸修 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 木戸修 |
本名 | 木戸修 |
ニックネーム | いぶし銀 究極の技巧派 |
身長 | 180cm |
体重 | 105kg |
誕生日 | 1950年2月2日 |
出身地 | 神奈川県川崎市 |
所属 | ビッグマウス |
トレーナー | ユセフ・トルコ カール・ゴッチ |
デビュー | 1969年2月21日 |
木戸 修(きど おさむ、1950年2月2日 -)は、神奈川県川崎市出身のプロレスラー。
ビッグマウス所属。公称での身長は180cm、体重105kg。どんなに激しく動いても乱れないヘアスタイルが特徴。
寡黙だが、カール・ゴッチ直伝のグラウンド技術で「いぶし銀」のプロレスラーと呼ばれる。
目次 |
[編集] 年譜
- 後、藤波辰巳と共に西ドイツ遠征を経てアメリカの「カール・ゴッチ道場」でゴッチから直接レスリング技術を学んだ。ゴッチは木戸を「ムスコ」「私の領域に一番近づいた男」と評している。
- 帰国後の新日マットでは、地味なファイトスタイルや寡黙な性格が災いして前座試合の出場がメインで、デビュー当初はライバルと目されていた藤波とは差がついてしまった。
- 1984年9月から第一次UWFに参加すると徐々にファンから評価が高まり、職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになった。また、1985年に行なわれたUWF内の第一回リーグ戦で優勝する。
- 1985年12月に第一次UWFの崩壊に伴い新日マットへ復帰すると、キド・クラッチや脇固めを駆使して活躍するようになる。
- 1986年8月、前田日明とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得した。
大技の攻防が日常化していく90年代以後の新日本の中で一人、地味ながら切れ味鋭いレスリングスタイルを貫いた木戸は「新日本の良心」として一部ファンから高い支持を得ていた。特に札幌地区での人気はすさまじいものがあった。木戸自身と札幌とは特に縁があるわけではないが、新日本の札幌大会は藤原喜明のテロリスト事件(藤原の項を参照)に代表されるハプニングが頻発し、しっかりとした試合が提供されないことが多かったため、常に堅実な木戸を支持するファンが特に多かったようである。 新日本の札幌大会では会場中に応援ののぼりが立ち、札幌の後援者から贈られたハッピを着た木戸が登場すると大歓声が沸きあがった。木戸もその後押しに答え、佐々木健介をキド・クラッチで下した実績がある。専門誌はその現象を「木戸の異常人気」として伝え、後に木戸は「札幌男」と呼ばれるようになった。
- 2001年11月2日、横浜文化体育館で引退記念興行が行われ、長州力とタッグを組み、藤波辰爾・木村健悟組と対戦。一旦現役を引退した。
- 2005年9月11日に復帰してビッグマウス所属のレスラーとしてビッグマウス・ラウドに参戦している。
- 2007年11月、ハッスルのハッスル軍コーチを勤め、どハッスル!(テレビ東京)に登場した。
[編集] 得意技
- 脇固め
うつぶせ状態の相手の片腕を肩の付け根付近で脇に挟んでアーム·バーに固め、肩を支点にてこの原理で肩と肘関節を極める。新日本~UWFと盟友だった藤原喜明と共に随一の使い手。
- キド·クラッチ
木戸のオリジナル技でフォール率が極めて高い。相手が屈んだ状態のとき脇固めを仕掛け、相手が前転で逃れようとした際に片腕で相手の片足を捕え、背中越しにエビ固めに捕える。IWGPタッグ戦で木村健吾相手に初披露。この技で見事第2代王者に輝いた。
[編集] 獲得タイトル
[編集] 入場テーマ曲
- BLACK-RIDER
1980年代はブルー・インパルスというテーマ曲(LP新日本プロレス・スーパーファイターのテーマに収録)もあった。しかし当時は現在の様に殆どの選手の入場で曲がかかる訳ではなく、テレビ中継がある試合を中心にかかる程度だったため、前座で組まれる事がある木戸の試合ではテーマ曲が省略されたり、自分より上位のタッグパートナーの曲が優先されたりするため、テレビ中継や会場でも耳にする事が殆ど無かった。
[編集] エピソード
- 兄の木戸時夫も1963年に日本プロレスに入門したプロレスラーだった。練習中の事故で脊椎を損傷してしまい、志し半ばでリングを去った後に闘病生活を送っていたが1977年7月20日に亡くなった。闘病生活を送る兄を見守るうち、「兄の叶えられなかった夢を自分が叶える」と志すようになる。このことは引退セレモニーの席まで木戸本人の口から明かされることはなかった。
- 1982年、ビッグレスラー(月刊誌)のベストバウトを語るコーナーで、試合を指定せずに「藤原との試合は、タッグでもシングルでも兄が見て誉めてくれていた」と語っていた。
- ゴッチが木戸を認めるように、木戸もゴッチに対して心酔に近い感情を持っていた。第一次UWFに移籍した際も雑誌のインタビューで理由を「ゴッチさんに誘われたから」とコメントしていた。また、第二次UWFへ新日より移籍する選手が続いた頃、記者に「木戸さんは行かないのか?」と聞かれた際に「ゴッチさんがいないから」(当時、佐山聡のスーパータイガージムに指導にいった事が原因でゴッチは第二次UWFの顧問から外れていた。)と移籍しない理由としてコメントした事が週刊プロレスで紹介されている。
- 娘がふたりいる。長女はアマチュアゴルフの大会に出場し、報道されたことがある。
- 副業としてアパート経営をしている。
- 潔癖症としても知られ、武藤敬司が語るところによると、グレート・ムタから毒霧を受けた際、武藤は3日間口を聴いてもらえなかったらしい。