日本の原子爆弾開発
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日本の原子爆弾開発(にほんのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦の時期に日本で行われた原子爆弾の開発計画に関する記述を行う。第二次世界大戦後の日本では、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、開発計画もない。
目次 |
[編集] 第二次世界大戦中の原子爆弾開発
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の大日本帝国には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と海軍のF研究(Fissionの頭文字より)である。
[編集] ニ号研究・F研究の開始
昭和15年(1940年)、理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。昭和16年(1941年)に日本陸軍は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、アメリカによるマンハッタン計画が開始された翌年の昭和18年(1943年)1月に、同研究所の仁科博士を中心に開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、昭和19年(1944年)3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。他方、日本海軍も昭和16年(1941年)5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、昭和17年(1942年)には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。
しかし当時は、岡山・鳥取県境の人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、福島県石川町などでは閃ウラン鉱、燐灰ウラン石、サマルスキー石などが採掘されたが、含有量の少ない物がごく少量採掘されるだけであった、そのため日本海軍は中国の上海闇市場で 130kg の二酸化ウランを購入し、ナチス・ドイツの潜水艦(U-234)による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられた[1]、また既知のウラン鉱脈の開発を進めるとともに、国内および朝鮮半島でのウラン鉱脈の調査も行った。しかしどちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。また理化学研究所の熱拡散法は米国の気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。
また原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり容器の中に濃縮したウランを入れその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった、濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされており、理論自体にも問題があった。
さらに10%の濃縮ウラン10kgの製造も理化学研究所の熱拡散塔では不可能と判断されており、日本の原爆開発はもっとも進んだところでも基礎段階を出ていなかった。
[編集] 研究打ち切りと敗戦
昭和20年(1945年)5月15日のアメリカ軍による空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった[2]。同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。
日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、9月2日にポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾されている[3][4]その後、占領が終了するまで核分裂研究は一切禁止された。
ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた[5]。関係者の中からは、戦後湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している[6]。
[編集] 第二次世界大戦後の状況
戦後の日本は、原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。昭和29年(1954年)の原子力予算成立とそれに続く日本原子力研究所の設置を皮切りに、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。高速増殖炉(もんじゅ)や核燃料再処理技術などの開発を積極的に行った。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる核物質も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められている。
また、日本は国際原子力機関(IAEA)による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。
現在の日本の世論として核武装論は少数派であり、反核運動が盛んである。[要出典]そのため核抑止は同盟国のアメリカ合衆国に任せて自らは保持しないという姿勢が貫かれている(非核三原則)。ただし日本の技術力の高さから「潜在的に核開発能力保有国である」と考える外国人は多い。
[編集] 脚注
- ^ ドイツはチェコのウラン鉱山が支配下にあった。
- ^ 「旧理研研究者が「日記」 長男が保管、「仁科書簡集」収録へ」(毎日新聞東京夕刊、2007年1月5日付)
- ^ 読売新聞2005年8月15日の記事より。
- ^ ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている。詳細は以下の外部リンク記事(日経ネット関西)を参照。
湯川秀樹の遺伝子(1)加速器、秘められた過去(2008年1月21日)
湯川秀樹の遺伝子(2)実験屋魂、加速器部品守る(2008年1月28日)。 - ^ 福井崇時「日米の原爆製造計画の概要」 『原子核研究』第52巻1号(『原子核研究』編集委員会、2007年)
- ^ 常石敬一「原爆、七三一、そしてオウム」『AERA』1995年8月10日号(No.36)増刊「原爆と日本人」、P58~59。なお本稿で常石は湯川秀樹が戦後に米軍から原爆開発の実態について尋問を受けたと記している。
[編集] 参考文献
- 山本洋一『日本製原爆の真相』(創造、1976年)
- 広島大学総合科学部 編、市川浩・山崎正勝 責任編集『“戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』(丸善、2006年) ISBN 4-621-07705-8
- 杉田弘毅『検証 非核の選択 核の現場を追う』(岩波書店 2005年) ISBN 4-00-001937-6
- 福好昌治「知られざる「日の丸原爆」研究の真相」、潮書房『丸』1995年9月号 No.594 p108~p109