成瀬氏
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成瀬氏(なるせし)は日本の氏族。家紋は丸に片喰、下り藤、一文字。
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[編集] 三河成瀬氏
南北朝時代の関白二条良基と三河足助氏の当主、足助重範の娘(滝野)の間に生まれた子(成瀬基久)がはじまりである。その子孫は松平親氏の代から松平氏に仕えたとされている。成瀬正成が諸侯に列し、江戸時代を通して尾張藩の御附家老を勤める。華族類別録では第42類藤原朝臣とされているが、足助氏の分流として清和源氏満政流を称することもある。
[編集] 三河成瀬氏
徳川家康の時代には成瀬正頼の子の正義・正一兄弟が武功をあげ、大いに活躍した。
[編集] 三河成瀬氏歴代当主
[編集] 犬山成瀬氏(尾張藩)
正一の長男、正成は家康の元で武功を上げ、栗原藩主に封ぜられ諸侯に列した。後に尾張藩の御附家老として犬山城を与えられるが、正成の代から明治維新まで、犬山成瀬氏は陪臣の扱いを受け続けることになる。明治維新後、9代当主成瀬正肥は悲願の立藩を果たし、犬山藩の藩知事となるが、すぐに廃藩置県が実施される。維新後は子爵、11代当主に東京大学教授で国文学者の成瀬正勝。また、彼は2004年まで国宝の犬山城を私有していた事でも有名。
[編集] 犬山成瀬氏歴代当主
[編集] 栗原成瀬家(栗原藩)
正成が犬山城へ転封となった後に、栗原藩は正成の次男、之成が相続する。之虎が夭折したために、無継断絶となった。
[編集] 栗原成瀬氏歴代当主
[編集] 成瀬掃部家(加賀藩)
正一の次男、吉正は、はじめ家康の小姓として仕えるが出奔。浅野幸長、小早川秀秋、前田利常に仕え、最終的に加賀藩の家老となり1万1千石を領する。子孫は、人持組の成瀬掃部家。
[編集] 成瀬吉右衛門家(旗本)
正一の家督は四男、正勝が相続する。
[編集] 成瀬(伊東)家(飫肥藩・尾張藩)
正一の三男、正武の子孫。正武切腹後は妻於仙の実家に戻り、飫肥藩の一門三家の内、伊東主水家、伊東図書家の祖となる。正武の嫡系子孫は尾張藩士となる。明治維新の際に、青松葉事件に連座して処刑された正順はこの家の人。
[編集] 系譜
[編集] 三河成瀬氏系図
二条良基(関白) ┃ 成瀬基久 ┃ 基直 ┃ 直庸 ┃ 国平 ┃ 国重 ┣━━━┓ 正頼 国次 ┣━━━┓ 正義 正一 ┣━━━━━┳━━━┳━━━━━┳━━━┓ 正成 吉正 正武 正勝 正則 ┣━━━┓ ┣━━━┓ ┃ 正虎 之成 祐正 祐秋 正信 ┃ ┃ ┃ 正親 之虎 正惟 ┃ 正幸 ┃ 正泰 ┃ 正典 ┃ 正壽 ┃ 正住 ┃ 正肥