張大千
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張大千(Zhāng Dàqiān, Chang Ta-Chien, Chang Dai-chien, 1899年5月10日 - 1983年4月2日)は中国近代の著名な画家である。彼はまた多くの専門家によって20世紀の最も才能豊かな贋作者の1人として知られる。
名を正權といい、後に爰に改名、号が大千。
若い頃より伝統的な中国画の技法の修行を積んだが1917年、19才の時に日本の京都へ留学し、京都芸術専門学校で3年間染色を学んだ。1920~30年代には上海等での個展で認められ、南張(南に張あり)とたたえられた。楊継仁著『張大千伝』(文化芸術出版社、1985年)によれば、1931年に「唐宋元明中国画展」代表として日本を短期訪問している。1933年には中央大学芸術専攻教授を務め1936年に上海中華書局が「張大千画集」を出版、徐悲鴻が序を書き500年に1人の画家と称賛される。
1940年から約2年7ヶ月に渡り敦煌の莫高窟に住み込み、壁画の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。ちなみに敦煌莫高窟における最初の模写を行ったのは、大千であるとされる。1942年にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まる事になった。
1948年に香港に移り、以降はブラジル、アメリカなど国外に20年以上滞在する。1951年にアルゼンチンに移り、1953年にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。1957年、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。1959年にはかねてからの眼病の治療のため渡米するついでに日本に立ち寄り、在英の中国人作家・凌叔華(1900年~1990年)と画家の王済遠(1893年~1972年)と鎌倉旅行を行っている。1974年にアメリカ・カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を授与される。1978年に台湾に移住。晩年は台北に住み水墨画に専念、1983年4月2日、同地で心臓病により没。享年84歳。没後、遺族が四合院式の住居を台湾の国立故宮博物館に寄贈し、張大千紀念館(台北市士林区至善路二段三百四十二巷二号)として現在一般公開されている。
[編集] 贋作者としての張大千
張大千は紛れも無く一流の画家だが、困った事に贋作者としても有名である。1999年、ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム蔵の董源作「渓岸図」軸について、これが大千の贋作かどうかについて公開シンポジウムが開かれ大千の贋作であるとする学者、董源の真作であるとする学者双方が論陣を張ったが結局、未決状態になった。程度の低い贋作をもって「大千の作だ」とする者も居るが、大千の贋作は専門の学者が間違えてしまうようなレベルのものであるとされる。
代表作に「中郎授女図」、「渓橋行船図」、「撥墨荷花図」などがある。
とても猿が好きだったとされる。
大千は山水画の他に花卉の描写を得意とし、とりわけ蓮の花の画題で独自性を発揮した。彼の画風は優雅で、連綿と続く中国の伝統を強く感じさせる。晩年は水墨画に専念し、潑墨という技法により絵に動きを出したり色彩のコントラストを強めたりする等、力強く気韻に満ち溢れた作品を生み出した。古典的な中国画の技法と現代の新しい技法を融合させたと評価されている。