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山田 暢久(やまだ のぶひさ、1975年9月10日 - )は、静岡県藤枝市出身で浦和レッドダイヤモンズ所属のサッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。1994年に浦和レッズに入団以来レッズ一筋にプレイし、現在チーム最古参の選手である。なお、弟の山田智紀はジュビロ磐田で高原直泰と同期入団の間柄である。
[編集] プレースタイル
トップ下と右ウィングバックや右ミッドフィールダーでのプレーを得意とする。他にも右サイドバック、ボランチ、シャドーストライカーとしてもプレーする。過去にはリベロ(チッタ監督時代)、ストッパー(第一次オジェック監督時代)としてもプレーした。また、デビュー当時はフォワードとして福田正博と2トップを組んだ。元祖「ポリバレント」といっていい選手である。 このように身体能力が高く、得点感覚にも優れる万能型の選手だが、球離れの悪さ、好不調時の差など課題もある。
[編集] エピソード
[編集] プレー面
- 本人はトップ下への強い意欲から、「サイドはもうやりたくない」と話している。
- センターバックでプレーした事もあるが、そのときも「確かに真ん中だけど…」と、歯切れの悪いコメントを残している。
- 以前はチャンスメイクに専念していたが、2006年シーズン後半からはトップ下やシャドーストライカーとしての起用が増え、自らゴールを狙うプレーが増えている。
- 2006年シーズン終盤は絶好調といっていいほど調子をあげ、浦和の初の年間優勝に大きく貢献した。
- 気温と調子が反比例することで知られ、毎年バイオリズムが一定で、開幕~6月くらいまで好調、7~8月に調子を落とすが、9月中旬以降に調子を上げていき、リーグ最終盤には手がつけられない状態になる。
- 近年は疲れが溜まり易いようで、練習にもその影響が見られる事から、フル出場を希望する本人の意思を考慮しつつも途中出場や途中交代を命じられることもある。
- PKは得意ではないらしく、度々止められている。これは彼が蹴る際に動きの逆に蹴る工夫をしないために、コースを読まれやすいものと思われる。
- 試合での好不調の差や普段の発言や行動などから一部のサポーターからはタリー(顔文字付きで(`~´)タリー)という愛称で呼ばれている。
[編集] その他
- レッズを選んだ理由は「どのチームよりも試合に出してもらえそうだから」というものである。
- 2003年に、それまでつけていた背番号2から現行の6に変更したが、その理由は「2番に飽きたから」。
- 2006年の抱負として「期待に応えてタイトルを取りたい」と語ったが、それは14年目にして初のJリーグ年間優勝になることで達成された。
- 怪我には強く、浦和入団後はまったくと言っていいほど長期戦線離脱したことはない。しかしながら2007年10月24日、AFCチャンピオンズリーグ準決勝第2戦・対城南一和戦(埼玉スタジアム)において右ふくらはぎを負傷し、延長戦に途中交代。長期離脱かとも囁かれたが、その後の2007年10月28日の名古屋グランパスエイト戦(埼玉スタジアム)にも出場。しかし、前半終了直前に相手選手との交錯で右ふくらはぎ痛を再発。前半で負傷退場となってしまった。肉離れと診断され、全治3~4週間の長期離脱を強いられることとなった。後に、岡野雅行が自身のブログにおいて「アイツが松葉杖で歩いてるのなんて初めて見た。」と、これまでは(山田が)長期離脱をしたことがなかっただけに、驚きの言葉を綴っている。怪我には強いのだが、風邪を引いて体調を崩すことが多い。
- ジーコジャパンの試合では、4バックの右で起用されることが多くトップ下では一度も起用されていない。
- 一時期ジーコジャパンのレギュラーだったが、合宿中の無断外出の発覚以降招集されていない。
- なおこの時、山田姓がもう一人いたため、よくキャバクラ組(いわゆるキャバクラセブン)と間違えられるが、山田暢久自身は、しつこく誘われたため顔だけ出してすぐに宿舎に戻った。キャバクラ組の方は山田卓也である。
ちなみに、このとき誘ったのは親交のある奥大介であったという噂がある。このように現場側では山田暢久はキャバクラ組扱いではないとの認識が当時あったようで、ジーコにも当初は報告されなかったが、その後外出したことが明るみに出てジーコの逆鱗に触れたらしい。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 |
年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
1994 |
浦和 |
- |
J |
15 |
1 |
0 |
0 |
3 |
0 |
18 |
1 |
1995 |
浦和 |
- |
J |
42 |
1 |
- |
3 |
0 |
45 |
1 |
1996 |
浦和 |
- |
J |
30 |
3 |
11 |
0 |
4 |
1 |
45 |
4 |
1997 |
浦和 |
13 |
J |
22 |
1 |
6 |
0 |
2 |
0 |
30 |
1 |
1998 |
浦和 |
2 |
J |
34 |
0 |
4 |
0 |
3 |
0 |
41 |
0 |
1999 |
浦和 |
2 |
J1 |
29 |
1 |
4 |
1 |
2 |
1 |
35 |
3 |
2000 |
浦和 |
2 |
J2 |
39 |
2 |
2 |
0 |
2 |
0 |
43 |
2 |
2001 |
浦和 |
2 |
J1 |
27 |
3 |
6 |
0 |
4 |
1 |
37 |
4 |
2002 |
浦和 |
2 |
J1 |
28 |
1 |
8 |
0 |
1 |
0 |
37 |
1 |
2003 |
浦和 |
6 |
J1 |
27 |
3 |
11 |
0 |
1 |
0 |
39 |
3 |
2004 |
浦和 |
6 |
J1 |
27 |
2 |
9 |
2 |
4 |
0 |
40 |
4 |
2005 |
浦和 |
6 |
J1 |
32 |
3 |
10 |
1 |
5 |
2 |
47 |
6 |
2006 |
浦和 |
6 |
J1 |
32 |
6 |
7 |
1 |
5 |
0 |
44 |
7 |
2007 |
浦和 |
6 |
J1 |
29 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
31 |
0 |
2008 |
浦和 |
6 |
J1 |
|
|
|
|
|
|
|
|
通算 |
日本 |
J1 |
374 |
25 |
78 |
5 |
37 |
5 |
489 |
35 |
日本 |
J2 |
39 |
2 |
2 |
0 |
2 |
0 |
43 |
2 |
総通算 |
413 |
27 |
80 |
5 |
39 |
5 |
532 |
37 |
[編集] 経歴・タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 15試合 1得点(2002-2004)
日本代表 |
国際Aマッチ |
年 |
出場 |
得点 |
2002 |
1 |
0 |
2003 |
11 |
0 |
2004 |
3 |
1 |
通算 |
15 |
1 |
[編集] 外部リンク