夏侯玄
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夏侯玄(かこうげん、209年 - 254年)は、中国三国時代魏の武将。夏侯尚の子。字は太初。生母は徳陽郷主(曹真の妹)。従って曹爽とは従兄弟同士である。同母妹に夏侯徽(司馬師の前妻)。子の人数や性別は伝わらないが、傅暢の『晋諸公賛』によると、娘が和嶠(和洽の孫、和逈の子)の妻になった。
[編集] 経歴
父の夏侯尚が曹操時代からの功臣であったこと、彼自身が政治能力に優れていたことから、20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。しかし、曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、怒りを買って羽林監に左遷された(孫盛『雜語』によれば、美男子で有名だった夏侯玄と、風采のあがらなかった毛曾が同席したのを、世人が「葦が玉樹にもたれかかる」と評したためだとも)。
郭頒の『世語』によると、夏侯玄や諸葛誕ら当時の名士は互いに称号を付け合い、夏侯玄は「四聡」の1人に数えられた。しかし、曹叡はこれを軽薄な評判をもてはやす風潮として嫌い、彼らを免職にしたという(なお、この記事では「散騎常侍の夏侯玄」とあるが、『三国志』の本文に従うと、夏侯玄が散騎常侍になったのは曹叡の死後である)。
正始年間初期、曹爽が政治の実権を握ると、夏侯玄は散騎常侍・中護軍に昇進した。司馬懿から政治について意見を求められると、九品官人法を批判し、中正官の権限縮小を主張した。その後、征西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事(雍州と涼州の軍事指揮官)に昇進した。政治能力に優れていた夏侯玄は、この時に多くの州都で法律を制定し、異民族などで苦しむその地の安定に努めたと言われている。244年には曹爽と共に蜀へ進軍したが、輸送に苦しみ、大きな被害を出して帰還した。
249年に曹爽が処刑されると、夏侯玄は中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。夏侯玄は曹爽との関係を理由に抑圧され、また、当時の朝廷では妹婿でもあった司馬師が専横を極めており、彼は妹を毒殺されたことを恨んでいた。そこで、夏侯玄は254年に、張緝(張既の子)や李豊らと共に妹の仇討ちも含めて、国家のために司馬師の誅殺を目論んだ。しかし、司馬師に機先を制されて計画は事前に露見し、夏侯玄は捕らえられて三族皆殺しとなった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。正元年間に入り、夏侯玄の従子(おい)である夏侯本(夏侯儒の孫?)が昌陵亭侯に封じられ、夏侯玄の跡継ぎとして認められた。
夏侯玄は文学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わった。