塩澤敏彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塩澤敏彦 | ||
---|---|---|
名前 | ||
カタカナ | シオザワ トシヒコ | |
ラテン文字 | SIOZAWA Toshihiko | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1947年3月??日 | |
出身地 | 山梨県甲府市 | |
身長 | 165cm
|
|
選手情報 | ||
ポジション | DF
|
|
塩澤敏彦(しおざわ としひこ, 1947年3月 -)は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ポジションはディフェンダー。
目次 |
[編集] 略歴
東京の城北高等学校でサッカーを始める。同校は都内有数の強豪校で、テクニックに難のある塩澤にはポジション獲得は至難の業であったが、俊足と身体能力を買われて左フルバックのポジションを獲得し、以来現役生活を通じてDFとしてプレーした。
大学卒業後に日本サッカーリーグの名古屋相互銀行に入社するが2年目にリーグ最下位となり、1971年12月30日の藤和不動産(後のフジタ工業、現在の湘南ベルマーレ)に入替戦で敗れた結果、会社が休部を発表した。 1972年2月に大久保賢らと共に永大産業へ移籍。選手兼コーチとして同サッカー部の躍進に貢献、後に監督を務めたが、1977年に会社の業績不振もあって廃部。塩澤は2度までも所属先を失う不運に見舞われたが、部の責任者として選手の再就職に奔走した。
その後は永大を退社し神奈川県でスポーツショップを経営しながら少年サッカーの指導に携わっていたが、1984年に母校の明治大学サッカー部のコーチに就任。同年に関東大学リーグ2部優勝、翌1985年には関東大学リーグ1部2位、大学選手権ベスト4進出に導いた。
この手腕を買われ1986年にJSL2部の全日空横浜クラブ(後の横浜フリューゲルス)の監督に就任、前シーズンにボイコット騒動まで起こった同クラブを再建し1988年にJSL1部復帰。1988-89シーズンに2位、翌1989-90シーズンに3位に入る好成績をもたらし[1]1991年まで監督職を務めた。
その後、名古屋銀行監督を務める傍ら、2001年頃までは東海ラジオ放送Jリーグ解説者としてグランパス戦試合中継に出演していた。 また2005年には日本サッカー協会から派遣されてネパール代表の監督を務めている。
[編集] 所属クラブ
[編集] 指導歴
- 1972年-1975年 永大産業 選手兼コーチ
- 1976年 永大 監督
- 1984年-1985年 明治大学 コーチ
- 1986年-1991年 全日空横浜クラブ/全日空クラブ 監督
- 199?年-200?年 名古屋銀行 監督
- 2006年-2006年 ネパール代表 監督
[編集] 参考文献
- サッカーダイジェスト1987年1月号 ルポルタージュ・日本サッカー列島を歩く第37回
- 加茂周 『モダンサッカーへの挑戦』(講談社、1994年)
[編集] 脚注
- ^ 塩澤の後任となった加茂周は著書の中で「選手の主張を大幅に取り入れる雰囲気作りの上手い人で、それが好成績に結びついていたが、同時に限界でもあった」と評している。