嘉慶帝
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嘉慶帝(かけいてい、乾隆二十五年十月六日(1760年11月13日) - 嘉慶二十五年七月二十六日(1820年9月3日) 在位 嘉慶元年(1796年) - 嘉慶二十五年(1820年))は清の第七代皇帝。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。
[編集] 経歴
乾隆帝の第十五子として生まれ、乾隆帝が八十五歳の時(乾隆六十年)に乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝が死ぬまでは実質的に乾隆帝が皇帝だった。
乾隆帝が1799年(嘉慶四年)に死ぬと嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣和珅(珅は王編に申)を誅殺した。周りの人間全てが和珅の事をろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは和珅を信任し続けたために乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、和珅は国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。和珅から没収した財産は実に国家の歳入の十年分に当たったといわれている。
和珅に代表されるように乾隆帝中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。嘉慶帝はこれを修繕しようと試みるが、あまり芳しい結果は得られなかった。この頃の中国の人口は100年前が二億ほどだったのに対して四億を突破していた。しかしその一方で農業耕地は僅か一割ほどしか増加しておらず、必然的に一人当たりの生産量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。そうした民衆は匪賊となり、白蓮教を紐帯とする事で政府に対する反乱となった。このような反乱は乾隆帝末期から起きていたが、中でも天理教徒の乱ではわずか80名足らずではあるが、反乱軍に紫禁城にまで踏み込まれ、矢を壁に射立てられた。(この跡は現在でも残っている)
嘉慶帝は『己を罪する詔』(皇帝自身による自己批判文書)を出し、事態収拾に当たったが上手くいかない。政府軍の満州八旗は三世の春の長い平和により堕落しており、汚職には巧みであったが実戦にはまるで弱く、反乱軍に連戦連敗であった。窮した政府は反乱軍討伐を郷勇(きょうゆう)と呼ばれる義勇兵軍団に頼る事になった。この方策は成功し何とか反乱を鎮圧する事が出来た。
これと平行して海では海賊が横行し、清の船を襲っていた。これは艇盗の乱と呼ばれる。この海賊の後ろ盾にはタイソン党の乱でベトナムの支配者になった阮氏三兄弟がいた。賊と阮氏の関係は解りきっているのだが阮氏に訴えても知らぬ存ぜぬで通されてしまう。政府は対策を李長庚に命じた。1802年に阮氏政権が阮福暎に倒され阮朝が誕生した事で事態は好転し、後ろ盾を失った海賊を李長庚は討ち滅ぼした。
こうして清は何とか乱を乗り切った。しかしかつて「万に満てば敵すべからず」と言われた満州族の軍隊が今では全く役に立たない事を暴露してしまった事は、多数派の漢族に対する満州族支配に大きな不安を抱かせた。また反乱を鎮圧した郷勇が発展して、後に曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、満州族の地位を危うい物とした。
更に南の阮福暎の後ろにはフランスが迫ってきており、この頃からイギリスから密輸入されるアヘンが急激に増大していた。鎖国の夢を破る西欧諸国の足音がひしひしと迫ってきていたのである。アヘンが後のアヘン戦争を引き起こし、郷勇から発展した軍閥政権が清を滅ぼしたことを考えると、清の滅亡の萌芽はまさにこの時代にあったと言える。
なお、陵墓は清西陵にある。
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