西山朝
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西山朝(せいざんちょう、タイソン朝、ベトナム語:Nhà Tây Sơn)は、1778年から1802年の間、ベトナムに存在した短期王朝。この期間の一連の出来事は西山党の乱とも呼ばれる。
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[編集] 歴史
18世紀のベトナムでは、黎朝の皇帝が名目上のものとなり、北部は鄭氏、南部は阮氏(広南阮氏)が支配していた。阮氏が支配地域に圧政を敷くようになると、1771年、西山(タイソン)出身の3兄弟(阮文岳・阮文侶・阮文恵、阮姓だが広南阮氏とは無縁)が反乱を起こした。黎朝はこれを好機と見て大挙南下し、広南阮氏の首都富春(現フエ)を攻略した。このとき、進駐軍副司令官となった黎貴惇が著わした『撫邊雜録』は、同時代史料に乏しい広南阮氏研究の第一級史料である。
西山勢は黎氏に降伏する形で戦闘を継続、1777年に嘉定(現ホーチミン市)で広南阮氏を滅ぼした。この時に広南阮氏一族の阮福暎だけは辛くも国外へ逃げ延びた。1778年、阮文岳は中央皇帝を称する。1786年に阮文恵は黎朝内部の不和に乗ずる形で北伐し、これによって鄭氏政権も崩壊した。阮文恵は黎朝皇帝を存続させたが、不安を感じた昭統帝は清に亡命した。阮文恵は清の介入軍をドンダーの戦いで撃退し、ここに黎朝も亡んだ(1789年)。
阮文恵は北伐を敢行したことで兄の阮文岳と対立、阮文恵も帝を称した(彼はチュノムを公用文字としたことでも知られる)。一方、阮福暎は兄弟の内訌を突く形でシャムの援助を受けるなどして抗戦を継続した。阮文恵は阮文岳の勢力を吸収し、大挙して阮福暎を討伐しようとしたが、出陣直前に没した。子の阮光纉が後を継ぎ、阮福暎と激しい攻防戦を展開したが、外交戦に失敗してラオスや南シナ海の華人勢力などを次々と敵に回して劣勢となった。1802年に昇龍は陥落、西山朝は滅亡した。