吉川重吉
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吉川 重吉(きっかわ ちょうきち、安政5年(1859年) - 大正4年(1915年)は、旧岩国藩主吉川家の一族。外務官僚、貴族院議員。父は吉川経幹、兄は最後の岩国藩主吉川経健。爵位は男爵。妻は大洲藩最後の藩主加藤泰秋の娘・須賀子。子は男子が吉川元光。娘達は獅子文六、和田小六、原田熊雄に嫁いでいる。
[編集] 生涯
1871年に岩倉使節団に同行してアメリカへの留学を果たす。同行者は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、佐々木高行、山田顕義、田中光顕、田中不二麿など当時の要人の他、旧大名家・公家の子弟としては他に、岩倉具綱(具視の養子)、大久保彦之進、牧野伸顕、山県伊三郎等が参加。鍋島直大、前田利嗣、前田利同、黒田長知、鳥居忠文、大村純煕、毛利元敏等もいた。
留学先のハーバード大学を卒業して帰国後に外務省に入省、1891年11月21日に男爵に叙任され、その後は貴族院議員として活動した。1910年に後に立教大学を創立したジェームズ・マクドナルド・ガーディナーによって自宅を建築。1915年に南洋協会の設立に参加、副会頭となったが同年に死去。死後、その遺志によって岩国徴古館が建設されるに至った。墓所は谷中霊園にある。
[編集] 子孫
- 和田昭允(外孫:生物物理学者)