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厳島の戦い - Wikipedia

厳島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

厳島の戦い
厳島神社 大鳥居
厳島神社 大鳥居

戦争
年月日1555年10月16日天文24年10月1日
場所安芸国厳島
結果毛利家の勝利
交戦勢力
毛利軍 陶軍
指揮官
毛利元就 陶晴賢
戦力
4,000 - 5,000 20,000 - 30,000
損害
4,000(諸説有)

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は天文24年10月1日1555年10月16日)に、安芸国厳島毛利元就陶晴賢との間で行われた合戦である。

目次

[編集] 背景

これより前、天文20年(1551年)に大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立するに至っていた毛利元就はこの年厳島の宮尾に城(宮尾城)を築いた。これは厳島が周防から安芸へ水運を利用する際に重要な位置を占めており、そこに城を築くことで水運路を扼することを狙ったものだったが、同時に晴賢の軍を厳島に誘引するいわば囮の役割も果たしていた。

前年(1554年)の9月に宮川房長ら陶方の軍が安芸に侵入するも折敷畑の戦いで敗れていたが、当時晴賢は石見津和野城主・吉見正頼を攻略していたため戦闘が大規模化することはなかった。翌年の4月から6月にかけて両軍の間で小競り合いが発生したが、この時もやはり本格的な戦闘には発展していない。

[編集] 合戦の経緯

宮尾城には陶方から毛利方に寝返った己斐豊後守直之・新里宮内少輔が約500人の兵力で守りについていた。元就は「今厳島を攻められれば困ると元就が言った」という流言を流させたり、元就の家臣桂元澄が陶晴賢に対して内応を約束するという偽の書状を出したりするなどの謀略を使い陶軍を厳島におびき寄せようとした。陶方の弘中隆兼は危険であるとして厳島攻撃に反対したが、結局晴賢は厳島に向けて出撃した。

晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは9月21日10月6日)のことである。岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられている。陶軍は厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始した。この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いている。これは陰徳太平記によると易でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。この攻撃の遅延が陶軍の敗因の一つという指摘もある。

一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収める――厳島に接近するため、そして晴賢が厳島から脱出するのを阻止するために必要だった――ために傘下の水軍ばかりでなく伊予村上武吉来島通康ら伊予水軍にも援軍を求めた。この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し毛利軍に加わった。

草津城から地御前に前進した毛利軍は9月30日10月15日)の夜半、荒天の中、二手に別れて密かに厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、元就・隆元父子率いる主力部隊は鼓ヶ浦に上陸を果たした。この時、元就は上陸に使った舟を島に残さず全て対岸に戻させ、将兵に「後戻りは出来ない」という決死の覚悟をさせたと言われる。上陸後、闇の中で道に迷ってしまった毛利軍の前に牡鹿が現れ塔の岡へ導いたと陰徳太平記は伝えている。一方の小早川隆景率いる別働隊は、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊に対し援軍であると偽って通過し有ノ浦に上陸、宮尾城の味方部隊との合流に成功した。

翌10月1日(10月16日)早朝、毛利軍は陶軍の背後と城内から一斉に奇襲を仕掛けた。前夜が暴風雨であったことから油断があり、また狭い島内に大軍がひしめいていたため混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた晴賢の軍勢は総崩れとなった。晴賢は島外への脱出を図ったが、海上は伊予水軍に制圧されており脱出の為の舟も無く、結局脱出することは出来ず大江浦(又は高安原)で自刃して果てた。その後数日間掃討戦が続いたが、10月3日には最後まで抗戦した弘中隆兼・隆助父子も討ち死にした。

10月5日10月20日)には毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在の広島県廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行われている。この首実検の際に元就は、主君を討った逆臣であるとして晴賢の首を鞭で三度叩いたという(万代記)。この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後元就は血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたという。

[編集] その後

この戦いの結果大内氏は急速に弱体化し、かわって毛利氏がその旧領を併合していく。そして弘治3年(1557年)には晴賢によって擁立されていた大内義長大友宗麟の異母弟、大内義隆の養子となっていた)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。その後、北九州での対毛利戦争を有利に運ぶことを目的とした、大友宗麟による大内輝弘擁立が数度画策されたがいずれも失敗に終った。

[編集] 参考文献

  • 森本 繁『戦史ドキュメント 厳島の戦い』(学研M文庫、2001年) ISBN 4059010340
  • 小和田哲男『戦国合戦事典』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国10大合戦の謎』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)

[編集] 関連項目



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