防長経略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
防長経略 | |
---|---|
戦争:毛利氏による大内氏討伐 | |
年月日:弘治元年(1555年)10月12日 ~弘治3年(1557年)4月3日 |
|
場所:周防国、長門国全域 | |
結果:大内義長自害。毛利家が周防・長門を 完全平定。 |
|
交戦勢力 | |
毛利氏 | 大内氏 |
指揮官 | |
毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 |
大内義長 内藤隆世 杉隆泰 山崎興盛 |
戦力 | |
不明 | 不明 |
損害 | |
不明 | 不明 |
防長経略(ぼうちょうけいりゃく)とは弘治元年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日まで行われた、安芸国の戦国大名毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦のことである。
目次 |
[編集] 概要
1555年9月の厳島の戦いにより、毛利元就は大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破し、その勢いをもって周防長門国の攻略を計画した。まず10月12日に厳島から安芸・周防国境の小方(現在の広島県大竹市)に陣を移し、作戦を練った。
大内軍は、山口までの防衛拠点として椙杜隆康の蓮華山城、杉宗瑞・杉隆泰親子の鞍掛城、山崎興盛の須々万沼城、そして陶晴賢の居城で、嫡男の陶長房の守る富田若山城、右田重正の右田ヶ岳城を構えており、それぞれの城に城兵が籠り、毛利軍を撃退する準備を整えていた。
[編集] 調略と鞍掛城攻撃
元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。10月18日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、椙杜隆康は杉隆泰の降伏は偽りという証拠を元就に差し出し(実際、降伏が偽りであったかは不明)、ここに毛利軍と杉隆泰との関係は決裂した。 10月27日、機先を制した毛利元就は鞍掛城に奇襲をかけ、杉親子を討ち取り、城兵800も討死、落城させた。現在でもこの鞍掛城では、この戦いの際に焼けた米が出土する。
翌11月には宇賀島一揆を討伐し、翌1556年3月には周防山代一揆を鎮圧、三瀬川で大内義長軍を撃退した。4月には山崎興盛の須々万沼城を攻撃したが、これは撃退された。
[編集] 須々万沼城攻略と大内氏の内部崩壊
占領した玖珂郡の慰撫と戦力再編の後、1557年2月から元就の破竹の進撃が開始される。2月19日に前回攻略に失敗した山崎興盛の須々万沼城を攻撃。多少責めあぐねたものの、3月2日に攻略。山崎興盛は自害、江良賢宣は降伏した。この時、毛利軍は初めて火縄銃を戦闘に使用している。
3月8日には陶氏の本拠である富田若山城に迫った。強烈な抵抗が予想されたが、毛利軍の侵攻前に城主の陶長房は父の晴賢によって殺害された杉重矩の息子杉重輔により襲撃され、龍文寺にて自害に追い込まれていた。しかし、その立役者の杉重輔も3月4日に内藤隆世と戦い敗死していた。
富田若山城の攻略と時を同じくして、毛利元就は右田ヶ岳城主の右田重政と防府天満宮(松崎天満宮)の円楽坊(松崎天満宮境内で萬福寺と総称される九つの社坊の一つ)を降した。これにより、大内軍の主力は内藤隆世の軍勢と大内義長の高嶺城籠城軍のみとなっていた。
12日に富田若山城を出発した毛利軍主力は、同日防府天満宮の大専坊に入り本陣とし、ここで山口総攻撃の指揮を執ることとした。しかし先の4日の杉重輔と内藤隆世の争いで山口の町は焦土と化しており、そこに毛利元就に組した吉見正頼も阿武郡方面の大内軍を排除して宮野口へと迫っていた。そして京都同様防衛には向いていない山口の地を、大内義長は15日に放棄して長門国豊浦郡の且山城へ逃亡したという報告が毛利本陣にもたらされた。
[編集] 大内義長の最期
毛利軍本隊は山口の占領に動き、大内義長追討は福原貞俊に一任、そして大内義長の実家である大友氏の援軍を阻止するために、豊前国から長門国の周防灘から関門海峡にかけて乃美宗勝や村上水軍を派遣し、海上封鎖を行った。且山城は堅城であったが、城を包囲した福原貞俊は元就の策を使い、大内義長の助命と引き換えに内藤隆世の自刃を迫った。4月2日に且山城は開城し、大内義長は長福院に入り、内藤隆世は且山城で自害した。翌3日、福原貞俊は長福院を包囲して、義長に自刃を迫った。謀られた義長であったが、最早どうすることもできず、自害した。陶晴賢亡き後を支えた陶氏の忠臣野上房忠も、陶長房の嫡子鶴寿丸を殺害の後に自害した。
- 大内義長辞世の句
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ
- 野上房忠辞世の句
生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり
ここに大内氏と陶氏の正当なる後継者は絶え、毛利元就の防長経略は成ったのである。
この後、元就は4月23日に吉田郡山城に凱旋。しかし11月に蠢動する大内残党討伐のため出陣し、12月26日に吉田へと再度凱旋した。この大内残党討伐の際に元就は三子教訓状をしたためている。
[編集] その後の影響
大内氏の所領であった周防国長門国を併呑することによって毛利氏は一気にその勢力を拡大し、中国地方有数の大大名となった。
豊後国の大友義鎮は実弟の大内義長を見殺しにして大内氏旧領の豊前国・筑前国を占領。毛利氏と和を結んだが、後に毛利元就は博多の権益を求め九州に侵攻し、大友氏と激しく争うこととなる。この争いは元就死後の1580年代まで続いた。
新宮党討伐の影響もあり、毛利氏の大内領侵攻に対して、当主の尼子晴久は手を出すことができなかった。それどころか、この侵攻戦の最中に毛利氏により石見銀山を失うという失態まで犯している。
大内氏の正当は断絶したが、大内義興の弟・大内高弘の子・大内輝弘が1569年に大友氏の支援を得て山口に乱入するが、毛利軍によって敗北し自刃している。
陶氏嫡流は断絶したが、傍流の宇野元弘や陶隆満は生き残って毛利氏の家臣となっている。
内藤隆世は自刃したものの、その叔父の内藤隆春が生き残り、内藤氏は江戸時代も長州藩士として続いた。