来島通康
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 永正16年(1519年) | |||
死没 | 永禄10年(1567年) | |||
氏族 | 来島氏 | |||
子 | 得居通年、来島通清、来島通総 |
来島 通康(くるしま みちやす、永正16年(1519年) - 永禄10年(1567年))は、河野氏の家臣。 来島城主。
[編集] 生涯
伊予国の水軍を統率する来島村上氏の第四代当主で、1519年(永正16年)に生まれた。
河野氏の当主・河野通直に厚く信任され、その娘婿として迎えられた。このとき、河野姓を名乗ることも許されている。周防の大内氏の水軍が伊予に侵攻してきたとき、これを撃退したことからさらに通直に重用されるようになり、通直に家督を譲られそうになったが、一族の河野通政をはじめとする河野氏の重臣が反対したため、これは実現せずに終わった。
1555年(弘治元年)、毛利元就が陶晴賢と厳島にて戦ったときは、伊予水軍を率いて毛利軍の援軍として参陣した。その後も元就に積極的に協力し、対大内、大友氏戦で水軍衆を率いて活躍したという。
1567年(永禄10年)、湯築城にて病死した。