原俊介
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現在 | 2006年引退 |
所属球団 | 読売ジャイアンツ |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県秦野市 |
生年月日 | 1977年8月30日(30歳) |
身長 体重 |
180 cm 88 kg |
血液型 | B型 |
守備位置 | 捕手 |
投球・打席 | 右投右打 |
プロ入り年度 | 1995年 |
ドラフト順位 | 1位 |
背番号 | 62(現役引退時) |
英語表記 | HARA |
初出場 | 2003年 |
最終出場 | 2006年 |
経歴 | 東海大相模高- 読売ジャイアンツ |
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原 俊介(はら しゅんすけ、1977年8月30日 - )は、神奈川県秦野市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投げ右打ち。
目次 |
[編集] 来歴
1995年、福留孝介の外れドラフト1位で入団。強肩強打の選手として早い時期からファームの主軸としてとして2軍では活躍していたが、ファームの主軸ゆえに守備面での起用法が一定せず(ポジションは捕手・内野手・たまに外野も)、村田真一に替わる正捕手候補は村田善則や小田幸平が起用されることが多く、2軍暮らしが長く続いた。その後鳴り物入りで入団した阿部慎之助の打撃力の向上もあり、8年目の2003年に打撃力のある控え捕手として期待され初めて1軍に昇格。捕手以外にも内外野を守り(主に一塁)、右の控えとして期待に応えた。2004年以降は、1軍の捕手が2人体制となり、ファームでは不動の4番として活躍する一方、一・三塁手としての起用が多くなる。
2006年前年まで2番手の捕手として起用された小田幸平が中日ドラゴンズに移籍したことや、2003年1軍に昇格させた原が監督に復帰したことが追い風になると思われたが、星孝典や加藤健、新入団の實松一成などの台頭により、1軍でも打撃面を期待され指名打者や内野手としての起用がメインとなった。
2006年10月2日球団より戦力外通告を受け、退団。退団後の12球団合同トライアウトでホームランを放ったものの、獲得に手を挙げた球団は無かった。
2007年後藤孝志と立ち上げた野球教室、野球塾を行っている。
[編集] 通算成績
- 68試合 打率.224(85打数19安打)本塁打3本 10打点
[編集] 背番号
[編集] 記録
[編集] 初出場
[編集] 初安打
2003年3月29日対中日ドラゴンズ2回戦(対戦投手)久本祐一 東京ドーム
[編集] 初本塁打
2003年3月30日対中日ドラゴンズ3回戦(対戦投手)野口茂樹(現:巨人) 東京ドーム
[編集] エピソード
- 2軍で三塁を守り、4番に座ったため「4番・サード・原」というかつての原辰徳を彷彿させるアナウンスが実現したことがスポーツ報知のジャイアンツ日記で紹介された。2人は東海大相模高校の先輩後輩でもある。
- 原辰徳が引退した1995年に、福留孝介の7球団競合に敗れた巨人が更に中日ドラゴンズとの競合の末に選択権を引き当て、ドラフト1位で読売ジャイアンツへ入団した選手である。
- ちなみに、再抽選で原を外した中日が最終的に一位指名したのは荒木雅博であった。
- プロ初本塁打(ツーランホームラン)を放った際、ランナーは原とドラフト同期の仁志であり、その仁志とともに出迎えた次打者もまたドラフト同期の清水であった。同期のドラフト上位3名がホームベース付近に集うという珍しい出来事が起きた。
[編集] 補足
- 応援コールは"俊介"。
- 中日ドラゴンズ内野手の森野将彦は高校時代の野球部の1学年後輩にあたる。
- 2006年5月31日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で7番・指名打者でスタメンで出場。0-4とリードされた7回表に小久保裕紀の押し出し四球と阿部慎之助の内野ゴロで2点を返した後、レフト線へのタイムリー二塁打を放ち、チームの逆転勝利と連敗ストップに貢献した。
[編集] 関連項目
読売ジャイアンツ 1995年ドラフト指名選手 |
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1位:原俊介 / 2位:仁志敏久 / 3位:清水隆行 / 4位:大場豊千 / 5位:大野倫 / 6位:小林聡 |