卓袱料理
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卓袱料理(しっぽくりょうり)とは長崎市から流行し始めた中国料理が日本化したもの。大皿に盛られた料理を、円卓を囲み味わうコース、宴会料理のこと。和食、洋食、中国料理の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理(わからんりょうり)とも評される(蘭は出島に商館を構えたオランダを指す)。
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[編集] 概略
円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各々が自由に取り分け食べるのが卓袱料理の基本形である。現在では料亭や割烹料理店で味わうのが主流で、結婚披露宴で卓袱料理形式の献立が組まれたり、慶事などで卓袱料理の仕出し料理をとる家庭もあることから、敷居の高い料理である。しかし、大皿に盛りつけるなど手間が省ける合理性もあり、「急ぎの客人向け料理」「家庭的なもてなし料理」という側面もあったとみられている。
現在の卓袱料理は、「お鰭(おひれ)」と呼ばれる吸い物でスタートする。各人に椀が配られ、料亭では女将(長崎弁でおかっつぁま)が、披露宴では司会者が「お鰭をどうぞ」と挨拶を行う。参加者全員が吸い物を空にした後、主催者(結婚披露宴では来賓が多い)の挨拶が行われ乾杯。その後、大皿に盛られた料理が次々と振舞われる。料理の内容は店や予算などで異なるが、広東料理の宴会と同様に、最初に汁椀が出されることが共通している。
また卓袱料理を懐石料理だけで組み立てる料理を普茶料理というが、黄檗宗の隠元禅師から始まるとされる。現実には動物蛋白をいまほどは好まぬ時代の要請からともいわれる。また卓袱料理は「銘銘膳」などに象徴される日本食事形式に対比するものとも言われ、大正期から一般的になる卓袱台(ちゃぶだい)の語源となった。
[編集] 歴史
長崎における卓袱料理の起源は定かではないが、元和・寛永期(1615年-1643年)に崇福寺、興福寺などの唐寺が建立、徳川幕府により朱印船が廃止、対中国貿易が長崎港に限定されたため、かなりの中国人が滞在していたものとみられる。1689年(元禄2年)に唐人屋敷が整備されるまでは、中国人と日本人が市中に雑居しており、互いに招きあい、食事をする機会も多かったと考えられている。異文化の交流の中から、卓袱料理の形態が生まれたと言われている。また、海外から運ばれた砂糖や香辛料。オランダ語が語源とされるポン酢など、出島を拠点に行われた、ポルトガルやオランダなどとの貿易の影響も少なくない。
享保年間(1716年-1735年)頃には関西に伝わった。文化・文政期(1804年-1829年)前後には江戸で一大ブームになる。ひとりひとりに膳が出されるのが普通であった当時の人々にとっては、一つのテーブルを囲んで大皿で食べるという中国式のスタイルは物珍しかったという。江戸古典落語に登場する「百川」は卓袱料理屋として創業したと伝えられる(『評判江戸自慢』[1777年]および『嬉遊笑覧』[1830年]など)。このころになると、料理名こそ中国風であったが、その内容は日本料理・中国料理・南蛮料理が入り交じった独特のものに変化していった。また卓袱料理とは料理の種類でなく、卓やテーブルを使う食べ方を意味するとの考えもあり明快ではない。また「卓袱ウドン」のような名称は「たくさんの具」を意味すると考えられている。
卓袱の語源は不詳だが、中国語で「卓」はテーブル、「袱」はクロスの意味(袱紗など)。また、長崎奉行所の記録には「しっぽく」は広南・東京方面(現在のベトナム付近)の方言と記されている。
[編集] 卓袱によく使われる料理
- お鰭(おひれ)- 鯛の身と鰭が入った吸い物。鰭は飾りで食べない。
- 東坡煮(とうばに) - 中国の東坡肉(トンポーロー)、豚の角煮。豚三枚肉を柔らかく煮たもの。肉まんの皮のような蒸しパンにはさんで食べる。
- ハトシ(蝦多士、蝦吐司)- エビのすり身のパンはさみ揚げ。
[編集] 関連項目
- シイタケ 大きさが中程度の干し椎茸を「しっぽく」と呼ぶことがある。
- 卓袱うどん(しっぽく蕎麦)
- 『卓袱会席趣向帳』 1771年(明和8年)に江戸日本橋須原屋で刊行された卓袱料理の本。
- 卓袱弁当 長崎駅の駅弁
食卓の文化誌 石毛直道 文芸春秋