唐人屋敷
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唐人屋敷(とうじんやしき)は江戸時代の鎖国政策により長崎に設置された中国人住居地区。政府の規制によって成立した唐人屋敷も一種の中華街といえよう。
1635年、江戸幕府は中国商船の入港を長崎一港に制限する措置を取ったが、キリスト教徒ではない中国人は長崎市内に雑居することを許されていた。しかし、密貿易が増加したため、長崎奉行所では中国人の居住地区も制限することになり、1688年長崎郊外にある十善寺郷に幕府が所有する御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌年完成した。広さは約9,400坪に及び、二千人程度の収容能力をもつ。現在の長崎市館内町の地である。周囲は塀と堀で囲まれ、大門の脇には番所が設けられ、出入りを監視した。ただ出島のオランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許された。
1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、倉庫に目が届きやすいよう、唐人屋敷前面の海を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を造成した。この地域が新地と呼ばれる。1784年の大火では唐人屋敷全体が関帝堂を残して全焼、大火以後唐人が自前で住居などを建築することが認められた。1859年の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、1870年に焼失した。その後、在住中国人は隣接の長崎市新地町に中華街を形成し、長崎新地中華街となる。
唐人屋敷の遺構としては、明治期に修復改装された土神堂、観音堂、天后堂、1868年に福建省泉州出身者によって建てられた旧八門会所、1897年に改装、改称された福建会館前門が残る。