北条氏 (金沢流)
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金沢流北条氏(かねさわりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。武蔵国久良岐郡六浦庄金沢郷(現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名とされているが、通称として使われるのは南北朝以後。鎌倉幕府2代執権北条義時の5男実泰から分かれ、家格は実時の兄政村の嫡系に次ぎ、実時が政村の娘を、貞顕が時村の娘を正室に迎えて姻戚関係を持っている。居館は、顕時が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われている。菩提寺は金沢郷の称名寺。
[編集] 概略
始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した2代実時が実質的初代ともされる。実時は北条氏の総領得宗家の庇護を受けて有力御家人となり、叔父にあたる政村の娘を正室に迎える。
3代顕家は、執権北条時宗の死後に幕政を主導していた安達泰盛の娘婿であり、弘安8年(1285年)に得宗家被官の内管領平頼綱の策謀で泰盛派が粛清される霜月騒動が起こると、事件に連座して失脚、出家して隠棲している。永仁元年(1293年)に執権北条貞時が頼綱を滅ぼして得宗家主導の幕政を復活させ、失脚していた泰盛派を復権させる。顕時も幕政に復帰する。貞顕は高時政権を支え、一時的に執権に就任。
学問の家柄としても知られる金沢氏は明経道清原家の家説に学び、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作る。六波羅探題として京都に赴任した貞顕も本格的に文献収集している。
金沢氏の家名とされる六浦庄は、六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷から構成される。建保元年(1213年)に和田合戦で北条氏の所領となり、はじめは将軍家の関東御料で、金沢氏はその地頭職を勤めていたと考えられている。実政が鎮西探題として赴任(1275年)して以来は九州にも所領を持ち、幕府滅亡に際して鎮西探題が滅ぼされた後も、規矩高政らが北九州を中心に北条残党を集めて抵抗している(規矩・糸田の乱)。
[編集] 一族
[編集] 参考文献
- 永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年) ISBN 4-8406-2025-3