北条貞将
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北条 貞将(ほうじょう さだまさ、1302年(乾元元年)-1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日))は、鎌倉時代末期の北条氏の武将。金沢流北条氏・北条貞顕の長子で嫡子、母は北条時村の娘か。北条貞冬など兄弟多数。子に忠時、淳時。官職は左馬助。越後守。武蔵守。屋号を用いて金沢(かねさわ)貞将とも呼ばれる。
1318年に評定衆となり、引付頭人などを務る。正中の変の後、1324年に六波羅探題南方となり上洛する。父・貞顕の根回しもあり、1330年に探題職を辞任して鎌倉に帰還、引付頭人に任じられる。
1333年、後醍醐天皇の挙兵に呼応して、上野国の御家人新田義貞の率いる新田軍が鎌倉に侵攻すると、幕府軍の大将として鶴見の戦い、鎌倉へ敗退した後には巨福呂坂を防備する。巨福呂坂で敗れると、主君・北条高時に挨拶するために東勝寺に引き、最後の突撃を敢行しようとする直前、高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模国の守護職を与えられた。1333年5月22日、新田軍に攻め入って戦死。
その最期は軍記物語『太平記』においても壮烈な描写で記されている。
[編集] 年譜(官職位階履歴)
※日付=旧暦
- 年月日不詳、従五位下に叙し、左馬助に任官。
- 1324年(正中元)、越後守に転任。 11月1日、六波羅探題南方に赴任。
- 1327年(嘉暦2)、武蔵守に転任。
- 1330年(元徳2)閏6月28日、六波羅探題退任。 月日不詳、引付頭人と就る。以後没年月日まで在任。
- 1333年(元弘3)5月21日、執権北条守時より北条家のあとを託され、相模守を称する。