北条顕時
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北条顕時(ほうじょうあきとき、宝治2年(1248年) - 正安3年3月28日(1301年5月7日))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将。父は金沢流北条氏の初代北条実時、母は7代執権北条政村の娘。妻は安達泰盛の娘・千代野。他、摂津国の御家人遠藤為俊の娘、千葉泰胤の娘など数人の側室がいる。子には顕弁、顕実、貞顕、時雄、顕景、また足利貞氏室(高義母・釈迦堂殿)となった女子などがいる。通称は赤橋殿。初めは越後四郎時方と名乗った。
[編集] 略歴
文応元年に将軍家庇番衆となして宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ。(文永6年)1269年に引付衆となった後、(弘安元年)1278年には評定衆に加えられ、弘安3年には越後守に任官。翌弘安4年には引付四番頭人へと昇進。その間、左近将監、越後守に任じられている。弘安6年には従五位上に叙任。
弘安8年(1285年)11月、幕政を主導していた安達泰盛らが内管領平頼綱に滅ぼされた霜月騒動では、娘婿にあたる顕時も連座して金沢家の領地であった下総国埴生庄に隠棲し、出家して「恵日」と名乗る。永仁元年(1293年)4月、執権貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼすと鎌倉へ戻り復権し、同年10月には執奏となる。永仁2年(1294年)には引付四番頭人、永仁4年(1295年)には三番頭人加わり、赤橋館を与えられる。晩年は胃病を患い、54歳で死去。