霜月騒動
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霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代の1285年(弘安8年)に起こった安達泰盛一族が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
安達泰盛は、鎌倉幕府御家人で、北条得宗家の外戚で御恩奉行として影響力を持っていた。1284年(弘安7年)に執権北条時宗が死去すると、泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、内管領の平頼綱と対立する。1285年11月、頼綱は9代執権の北条貞時に讒言(「安達が源氏に改姓し将軍になる陰謀あり」とのことだという)を用いて、貞時の命令で泰盛を討伐した。泰盛の子の安達盛宗も博多で滅ぼされ、泰盛に属した少弐景資が兄の少弐経資に岩戸合戦で滅ぼされ、武蔵国でも泰盛派の御家人が討たれ、縁者の北条(金沢)顕時、長井時秀が処罰されるなど、影響が及んだ。
更に、影響は朝廷にも波及して、泰盛と親交があった亀山上皇の院政停止(持明院統伏見天皇即位)が行われた背景の一つにこの騒動を上げる説もある。
この事件以後、幕府内で得宗の家臣である御内人の代表である内管領の専権が強まり、得宗専制支配が確立した。