明経道
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明経道(みょうぎょうどう)は、日本律令制の大学寮において儒学を研究・教授した学科。
元来大学の本科にあたり、特別の名称はなかった。儒学の研究を明経と呼ぶ例は奈良時代からあったが、平安時代前期に大学の各学科が「道」(紀伝道・明法道・算道・書道など)と呼ばれるようになると、明経道という呼称が定着した。明経博士1名・助教2名・直講2名の各教官と、明経得業生(みょうぎょうとくぎょうしょう)4名・明経生(みょうぎょうしょう)400名から成るが、学生定員は平安時代を通じて充足されることはなかった。教科書は平安時代に三経(詩経・書経・易経)、三礼(周礼・儀礼・礼記)、三伝(春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)及び『論語』『孝経』の11経が主な教材として確立された。そして『論語』『孝経』の他に最低二経を学習した明経生は明経試(後に明経得業試に改められた)に受験・合格してから叙位・任官するのが原則だったが、明経試を経ないで叙位・任官するケースも多かったらしい。
平安時代初期には三礼学派・三伝学派という流れが成立して両者の間で論争が行われたが、平安時代中期以降は明経道そのものが儒教の専門家養成コースのような性格を持つようになって学術論争が沈滞していった。また、その地位も紀伝道を掌る文章博士(元は明経道に附属して直講1名が回されたもの)の地位が上昇して明経博士を追い越したために本科としての地位を失った。それでも、明経道の本科としての意識は強く、明経博士を務めた十市有象(中原氏の祖)による安和2年(969年)の解文には、紀伝道と明法道を「小道」と非難する一文が載せられている(『類聚符宣抄』所収)。また、文章生など他の学生に対しても一般常識としての儒学教養を求めたために他学生による明経道の講義の聴講が行われる場合が多かった。
やがて明経道の教官職は中原氏・清原氏による世襲が事実上慣例化し、明経道そのものも専ら訓詁学研究に終始したようである。