北村徳太郎 (都市計画家)
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北村徳太郎(きたむら とくたろう、1895年 - 1964年)は、日本の造園技師・都市研究者・都市計画家で、東京大学農学部教授も歴任。日本の公園行政の発展に寄与。また東京緑地計画の立案のほか、「緑地」、「疎開」という言葉を創り広めた。
[編集] 来歴・人物
- 1895(明治28)年北村亨吉とスエの長男として山形県米沢で生まれる。
- 父は元米沢上杉藩士で、すでに米沢藩の藩医をしていた祖父茂助(貞徳)の代に東京に出ていたが、母親は米沢の風習にしたがい里帰りしたようである。
- 独逸協会中学、第一高等学校、を経て東京帝国大学医科に進学したが、まもなく農科に転籍する。
- 1921年(大正10)年大学を卒業し内務省に入省。
- 1933(昭和8)年、内務省内に内務次官を会長とする東京緑地計画協議会を結成。これは昭和10年に、東京を中心とする一府二県にわたる大計画が完成。計画のみに終ったが、今日の緑地はほぼこの計画に準拠されている。
- 1935(昭和10)年 約10ケ月間の欧米視察。
- 1936(昭和11)年、県及び市町村を会員とする日本公園緑地協会設立に参画。
- 1943(昭和18)年内務省を勇退。
- 1945(昭和20)11月、戦後戦災復興院が発足し計画局に公園緑地を所管する施設課が新設、計画局次長の大橋武夫に招かれて初代課長に就任。
- 1949年9月、計画局施設課長を退職。建設省設置に伴い移籍、都市局施設課長。同年建設省を退官。28年にわたり中央官庁の行政織として奉職
- 1951(昭和26)年 東京農業大学国土計画研究所を開設し、教授に就任。
- 1952(昭和27)年 東京大学教授。農学部で国土計画・都市計画の講義を開始するなど講座の充実を図ると共に教育研究のため、独立した大規模な実験所を必要とするとして、千葉市検見川に園芸実験所を新設する。
- 1955(昭和30)年3月 東京大学を退官。この頃石川栄耀らと、日本都市計画学会の創設に尽力する。
- 1957(昭和32)年 日本都市計画学会会長、1959(昭和34)年 日本造園学会会長を努める。
- そのほか都市計画協会、国土計画協会等の理事を歴任。日本ガーデン協会は創立者にも参画。また、全国市町村庁幹部の都市計画に対する認識を高めるため、全国市長会専門研究員として、数市の計画に参与するかたわら、総合計画を自ら立案した。
- 1961(昭和39)5月8日逝去。享年69歳。
[編集] 業績ほか
- 全国の都市計画、地方計画、国土計画に参画し主として公園緑地の指導的立場にあり、終始一貫中央官庁で黎明期の都市計画行政の指導監督、戦災復興事業の実践等の任にあたった。常に世界最先端の情報を汲み取り計画理論を展開し、日本の都市計画における公園緑地計画や地方計画などの有り方について新しい理論体系を打ち出していった。土地区画整理事業における公園地3パーセント留保する理論を基準化したほか、1935(昭和10)年都市計画法改正においては公園緑地を都市計画施設につけ加えたほか、日本国内主要都市の大規模緑地の造成を推進していく。
- 内務省に入った頃は都市計画法が制定されて間もないころで、都市計画行政者としてこの法律を動かすための基準づくりに関わる。当時日本の都市は急激に都市化が進展し、国が東京市区改正条例の5大都市へ適用や新しい欧米の都市計画法制度を参考に都市計画制度を発足させていた時期に重なった。 特に都市公園に関し当時笠原敏郎を中心に当時の東京府や東京市などの行政関係者や識者十数人で公園協議会が設けられ、公園設置基準や公園行政のあり方などについてや主に東京の公園計画を手がけていた。こうした基準や計画の原案作成は北村が手がけ、欧米を中心とした世界諸国の計画資料を取りまとめその調査研究成果は内務技師大田健吉との連名で1923(大正12)年雑誌『都市公論』誌上に「都市計画と公園」を発表する。公園計画の方は都市計画の主任官会議において基本案を紹介、このとき示された公園計画案は昭和8年に決定するに至る。
- 内務省都市計画課発足後建築と土木のほかに公園専門の主任技師がおかれ、北村は一貫してその地位を占めている。1933(昭和8)年の東京緑地計画協議会は北村の発案に基づいて発足。内務次官を会長に、内務省と警察関係者、東京・神奈川・千葉の府県都市計画や建築、農林、保険衛生、土木行政など幅広い実務関係者と学識経験者により構成された。出来上がった緑地計画案は1910年のベルリンで開かれた都市計画展の指名コンペの入選作でヤンセンやエーベンシュタット等の案の、都心まで楔状に入り込んだ緑地系統が大きく影響しているとされる。造園技師の業務が公園計画から風致計画、広域の緑地計画、地域計画へ理念の転換が図られたことがわかる。
- 先進諸国、特にドイツの国土計画、地方計画理論、都市計画容積地域制度 公国緑地計画論及び法制等を紹介するとともに、緑地系統諭、緑地機能論を展開して今日の基礎を作る。欧米出張のときヨーロッパではドイツが第一次世界大戦での経験を踏まえて食料の自給体制と国民の健康強化、また国防(防空)といった観点で国内産業の分散政策や農村地域強化、大都市圏の緑地化を進めていたこともあり、ドイツでの滞在が最も長い。ドイツの実体をつぶさに見聞し帰国後、ドイツの国土計画とイギリスの田園都市とを対比してドイツのジードルンクなどの紹介に努める。石川栄耀が1942(昭和17)年に発表した国土計画論にこのときの国内の専門家への影響の様子を記していることから、その影響が大きかったことが想像される。
- 戦時中は大規模緑地設定に際し国庫補助を実現させたほか防空空地帯を設定、建物疎開を実行し、後の緑地地域制度の基となった。東京緑地計画で計画した大公園は大緑地に変換、内務省防空課長亀山孝一のアイデアをもとに17都市65箇所約4000ヘクタールの買収費を捻出(防空緑地を参照)。
- 風致保存問題についても諸外国の自然保護体系を紹介するとともに、全国的に風致地区の指定を促進、さらに風致地区居住者の自主的協力団体である風致協会等を育成、良好な居住環境の造成を進めた。
- 独白の菜園住宅地諭を展開、普及を図った。分区園と菜園住宅に関心を持ち、世界各国の家庭菜園の作園制度としてイギリスのアロットメント法やドイツクラインガルデン法などを紹介、居住の望ましい形態を菜園住宅に求め、レクリエーション論や野菜づくりを通しての健康維持、また家庭経済への効用など、また土地の効率利用の観点から集約的効生産農業などの論を展開した。さらに実際に世田谷に住居を移転して家庭菜園生活を実践し、詳細にデータを蓄積したという。
- 戦後は戦災復興都市の計画に多年の蓄積を生かして、戦災復興都市計画用に制定した特別都市計画法に緑地地域の制度化をもりこむほか戦災復興土地区画整理事業における5%以上の公園確保、全国各地の旧軍用跡地の転用可能国有財産の公園への無償貸与を制度化を実現、公園緑地に生まれ変わらせていったなど、公国緑地行政上において数々の業績を残している。
- 幼少期からずっと東京で育ったが、獨逸学協会中学時代は海軍主理だった旧米沢藩士小森沢長政の家に書生に入り、第一高等学校時代は米沢人の学生寮興譲館に入寮しているなど、生まれ故郷米沢との関係は長く続いた。
- 医学から造園学へ進路変更したのは、進学時に身体を壊していて、「医者は病人を治すが、造園家は病人を生まない環境をつくる」という考え方に至り、それを実行に移したためとされる。
- 財団法人日本公園緑地協会では北村徳太郎を記念して、公園緑地の調査、計画、設計等について著しい業績のあった人物等を表彰する「北村賞」を設置している。