加藤隼戦闘隊
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加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい)は、太平洋戦争初期に南方戦線で活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後、少将)率いる日本陸軍飛行第六十四戦隊(秘匿名「高二一九四部隊」)の通称名・愛称名であり、後にその活躍を称えた同名の映画も作られ、そこで用いられた軍歌(戦隊歌)も有名となった。ここでは部隊・映画・軍歌の3つすべてを説明する。 [1]
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[編集] 戦歴
昭和13年(1938年)8月、彰徳飛行場において立川飛行第2大隊第1、第2中隊と、平壌にあった平壌独立飛行第9中隊が合同して編成された。
隊が一躍有名になったのは1941年4月に着任した4代目隊長の加藤建夫の時で、「加藤隼戦闘隊」の愛称もこれに依っている。部隊はその後マレー半島、ジャワ、ビルマ方面でイギリス空軍には武勇を重ねたが、劣勢の中国軍を支援したアメリカ合衆国義勇軍相手には、米陸軍大尉、クレア・L・シェンノートらの構築した無線による早期警戒システムの罠にはまり大敗した。昭和17年(1942年)5月22日、加藤は僚機と共に基地に襲来したブリストル・ブレニム爆撃機を追撃し撃墜するものの、尾部銃座の銃撃を受けて戦死(自爆)した。加藤は死後2階級特進して少将となり、軍神として讃えられた。
加藤の戦死後、隊長は最後の宮辺英夫(第9代)まで5人いたが、隊長とは別に隊を事実上取り仕切っていたのが黒江保彦であった。黒江は同隊所属中、ビルマ戦線でイギリスの高速戦闘機「モスキート」を撃墜するなど活躍をし、昭和19年(1944年)まで所属した。その昭和19年4月22日、アラカン山脈方面を進撃中だった宮辺機が、成都に単独で向かっていた第444爆撃航空群所属のB-29と世界で初めて交戦。8発の命中弾を与え右内側エンジンを一時停止させたが、「隼」の性能ではB-29に太刀打ちできるはずも無く撃墜は叶わなかった。この他、拉孟、騰越両守備隊に対する物資投下作戦やインパール作戦失敗以降撤退する陸軍に対する掩護、輸送船団護衛に任じた。また、技量優秀な者による臨時の爆撃隊も編成され、1945年2月11日にはラムレー島上陸作戦掩護にあたっていたイギリス駆逐艦パスファインダーを大破全損に追い込んでいる。特攻に関しては志願者が参加、宮辺自身は隊内事情を鑑みて、後がないようなら特攻を志願する腹だった様である。しかし、最終的には「我が軍とっておきの部隊である」との理由により戦隊全体での特攻参加や特攻隊掩護は実現しなかった。
終戦時は南部仏印のクラコールで迎えた。この時点での保有機は一式戦「隼」三型18機だけだったという。残った隊員のうち何人かは強い誘いにより中華民国軍やベトミンに身を投じた(宮辺の回想による)。宮辺は終戦後、「飛行第64戦隊略歴」を作成。現在はその写しが防衛省防衛研究所に保管されている。
主要機種は九七式戦、一式戦「隼」(加藤隊長はこの隼の性能向上に大変意欲的であり、既存の無線機や防弾板を重要視していた)、二式単戦「鍾馗」。また、鹵獲したホーカー ハリケーン戦闘機が若干あった。戦闘機の定数は42機だったが、戦争後半では充足されることはほとんど無かった。最終的な戦果は撃墜283機・地上撃破144機(日本側記録による)。主な損害は戦死搭乗員160余名であった。
陸上自衛隊丘珠駐屯地(丘珠空港と同居)資料館に加藤建夫関連の資料や遺品が保存・展示されている。また、黒江は帰国後、昭和20年(1945年)2月に漢口で捕獲されたP-51のテストパイロット等を務め、戦後は航空自衛隊に入隊し小松基地の司令となったが、昭和40年12月5日に海難事故により事故死した。
[編集] 映画『加藤隼戦闘隊』
加藤隼戦闘隊 | |
監督 | 山本嘉次郎 |
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製作 | 村治夫 |
脚本 | 山崎謙太 山本嘉次郎 |
出演者 | 藤田進 大河内伝次郎 志村喬 高田稔 |
音楽 | 鈴木静一 |
撮影 | 三村明 |
配給 | 社団法人映画配給社 |
公開 | 1944年3月9日 |
上映時間 | 109分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
allcinema | |
IMDb | |
昭和19年(1944年)、東宝で『加藤隼戦闘隊』として映画化された。陸軍省が後援し、情報局選定の国民映画として公開された。
原作は、加藤隼戦闘隊に所属していた檜與平、遠藤健両中尉が日本に帰国後、明野飛行学校(現・陸上自衛隊明野駐屯地・陸上自衛隊航空学校)の航空学生になった頃に同隊の緒戦の戦いぶりを著した『加藤隼戦闘部隊』である。
映画は昭和19年に最も興行成績を上げるヒット作となった。加藤の人物像は名優藤田進が好演しており、戦闘シーンでは円谷英二が実戦紛う映像の再現に成功している。 また映画に登場する軍用機は、「隼」戦闘機を始め大半のシーンで本物が使われ、また敵機のブリュースターバッファロー戦闘機やP-40戦闘機などにも実戦で鹵獲された本物の連合軍戦闘機が使われるなど、リアリズムに徹している。 戦中の国威掲揚映画という制限はあるものの、『加藤隼戦闘隊』は昭和前期の戦争映画の白眉のひとつとして記憶されるものとなっている。 [2]
[編集] 軍歌
昭和15年(1940年)3月に南寧で作られた。正式な曲名は「飛行第六十四戦隊歌」である。昭和16年(1941年)元日に公開されたニュース映画で広く知れ渡るようになり、映画封切直前の昭和18年に灰田勝彦の歌でレコード化された。[3]なお、あまりにも名高いので映画の主題歌と思われがちだが、映画の主題歌は「隊長殿のお言葉に」(作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄。歌:灰田勝彦、小畑実など) であり、「加藤隼戦闘隊」はB面に収録された曲である。
- 作詞:飛行第64戦隊所属 田中林平准尉
- 作曲:南支派遣軍楽隊所属 原田喜一軍曹、岡野正幸軍曹(4番の旋律のみ)
- JASRAC管理著作物。
また、飛行第64戦隊には第二隊歌ともいうべき「印度航空作戦の歌」(作詞:黒江保彦、作曲:ビルマ方面軍軍楽隊所属 荻原益城軍曹。歌:伊藤久男)もある。
[編集] 参考文献
- 黒江保彦『あゝ隼戦闘隊―かえらざる撃墜王』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2017-8。
- 檜與平『つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊』光人社NF文庫、1984年、ISBN 4-7698-2104-2。
- 『日本陸軍機写真集』エアワールド、1985年。
- 宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社NF文庫、1986年、ISBN 4-7698-2206-5。
- 秦郁彦『太平洋戦争航空史話(上)』中央公論新社文庫、1995年。
- 押尾一彦・野原茂『日本軍鹵獲機秘録』光人社、2002年、ISBN 4-7698-1047-4。
- 梅本弘『ビルマ航空戦・下』大日本絵画、2002年、ISBN 4-499-22796-8。
[編集] 注釈
- ^ 「隼戦闘隊」の「隼」とは昭和16年に制式採用された一式戦闘機「隼」のことを言う、と考えられがちであるが、戦隊歌の成立時期は一式戦闘機の配備よりも前であり、戦闘機一般のことをハヤブサになぞらえたことによるものである。飛行第64戦隊は一式戦闘機が配備される前は九七戦や九五戦などを使用しており、この歌の成立時の使用機は九七戦であった。
- ^ なお原作の一人の檜は、昭和18年11月に交戦中に右足を負傷し義足となったが戦列に復帰している。平成3年(1991年)に71歳で死去した。一方、遠藤は著作の上梓前に戦死している。『加藤隼戦闘部隊』は2003年にカゼット出版から復刻発売されている(ISBN 4-434-07988-3)。
- ^ 後年、同姓の加藤茶が所属する関連でザ・ドリフターズがレコーディングしている。ちなみに、灰田は映画の中ではパレンバンに降下する空挺部隊の隊長役で出演。