加藤文太郎
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加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年(明治38年)3月11日 - 1936年(昭和11年)1月5日)は、大正から昭和にかけての登山家。兵庫県美方郡新温泉町出身。
複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』)やドラマのモデルとなっている。
[編集] 略歴
1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂552番地にて、加藤岩太郎・よねの四男として生を受ける。
1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後は郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所に勤務し、1923年(大正12年)頃から本格的に登山を始める。
当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。そこで、現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である。但し、非常に歩くスピードが速かった文太郎は、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たという。その距離は約100kmに及ぶ。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、また猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、また高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなった。
1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となる。1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。
1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。