前田吉徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 吉徳(まえだ よしのり、1690年9月10日(元禄3年8月8日) - 1745年7月11日(延享2年6月12日))は、加賀藩の第5代藩主。第4代藩主・前田綱紀の三男。母は綱紀の側室・町姫。幼名:勝丸、犬千代。後、又左衛門。諱は、利挙、利興、吉治、吉徳と改める。正室は徳川綱吉の養女(徳川綱誠の娘・松)・光現院。祖父は加賀藩中興の祖・前田光高。祖母は水戸藩初代藩主徳川頼房の娘・清泰院(徳川家光の養女・徳川光圀の姉)。そのため、前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。
子に前田宗辰(長男)、前田重熙(次男)、前田利和(三男)、前田重靖(五男)、前田重教(七男)、前田利実(八男)、前田治脩(十男)、喜代(浅野宗恒正室)、聡(前田利幸正室)、楊(佐竹義真正室)、暢(酒井忠宜正室)ら。
享保8年(1723年)、父・綱紀から家督を譲られて第5代藩主に就任する(父は翌年に死去)。吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽の大槻伝蔵を重用して改革を行なった。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇(御三家に準ずる待遇)し、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったため、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。
そこで大槻主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税をつくるなどの改革が行なわれた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功したと言ってもいいかもしれなかった。この功績によって吉徳の大槻伝蔵に対する信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかし、これに対して、藩内における保守派や門閥層が、改革による質素倹約による制限や成りあがり者に過ぎない大槻に対する嫉妬などで、不満が集まるようになってしまった。
延享2年(1745年)、吉徳は56歳で死去し、後を嫡男の前田宗辰が継いだ。大槻伝蔵は吉徳の死の翌年、保守派らによって失脚となった。そして、この吉徳と大槻の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となってしまったのである。
法名:護國院殿佛鑑法性大居士
墓所:石川県金沢市野田町の野田山墓地
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1702年(元禄15)2月、藩主後継者となる。利興と名乗る。6月9日、元服し、将軍徳川綱吉の一字を賜り、吉治と名乗る。正四位下左近衛権少将兼若狭守に叙任。
- 1723年(享保8)5月6日、藩主となる。6月15日、加賀守に遷任する。左近衛権少将如元。8月18日、左近衛権中将に転任する。加賀守如元。
- 1740年(元文5)11月1日、参議に補任。11月16日、吉徳と改める。
[編集] 関連事項
|
|